ヤクルトのトホホ害人劣伝
【序】
国鉄時代の外国人の選手は、既に日本で実績のあった日系人の宮本敏雄('63〜'64)と西田亨('63)
が移籍してきただけでした。
サンケイ時代になってからは本場アメリカからいわゆる「助っ人」が来日し、チーム内で重要な位置を占めるようになりました。
しかしその中には、周囲の期待と本人の成績との間に
大きなギャップがあった選手も少なくありません。
ヤクルト時代に来日したそのような選手たちを「トホホ害人劣伝」と称してご紹介していきます。
【野手】 (外国人選手一覧) --- ペピトーンを知らずして害人を語るなかれ ---
- ペピトーン('73〜'74) (14試合43打数7安打1本塁打2打点.163)
'67年からチームの中心打者として活躍したロバーツ選手が衰えてきたため、現役大リーガーの助っ人としてペピトーン選手が来日。
通算12年間で1397試合1315安打219本塁打721打点.258、All-Star出場3回、Gold Glove賞3回と実績は見事だったが…
6/23に初出場したものの7/6に前夫人との離婚裁判のため8/8まで帰国。日本戻ってきたものの8/20にアキレス腱を痛め、結局これ以後は出場なし。その後9/12に治療の名目で無断に帰国してしまった。ヤクルトとの契約は2年だったのに翌年も来日せず。
というのは単なる概略、大リーガーのプライドを捨てられないペピトーンには、これぞ害人の典型という、数々の迷惑エピソードが残されている。
自分の荷物を運べと言われてトラブル、電車に乗ると言われてトラブル。
スパイクを忘れた試合では代打出場になり、アキレス腱の治療中のはずが六本木で遊びまくる。
帰国してからも、翌年の給料を前借りさせろと言ってきたり、ニューヨークのデパートで婚約者への買い物の請求書が送られてきたり…
2年目に来日要請をした時に、前年来日時の荷物料金と犬の費用を請求してきたところで、球団も完全に見放してペピトーンを任意引退扱いにした。
後日談として、ペピトーンは前夫人に生活費を払わなければならないが金がない、アメリカで野球をやるにも任意引退ではいちいちヤクルトの許可がいるので自由契約にして欲しいと、弁護士からコミッショナーを通して要求があり、これをヤクルトが了承(だたしペピトーンはこれ以降の大リーグの出場はない)。
この一連のトラブルを見て、日米関係の悪化を懸念したドジャースのオマリー会長が、後にマニエルをヤクルトへ委譲するきっかけとなったと言われている。
- ハーロー('82) (42試合110打数18安打4本塁打12打点.164)
4/3開幕巨人戦が全てだった。センターで初出場したハーローは、2回裏一死一塁ではトマソンのフライを滑って転んで三塁打にしてしまい、これにより先制の2点を与えてしまった。
9回裏無死一塁では柳田の平凡なフライを目測を誤って中前打にしピンチを広げ、これによりサヨナラ負けになってしまった。
打撃の方は開幕3試合目まで8打数0安打3三振の散々なスタート。
ところがその後の7試合で26打数11安打4本塁打と打ち出して汚名を返上かと思われた。
しかし4/25に負傷で欠場した後はさっぱり。結局7月に解雇となった。
- デントン('82) (42試合82打数17安打1本塁打5打点.207)
ハーローと同じぐらいの成績しか残っていないが、デントンの方が印象が薄い。
というのも、4月は出場できずに、5月になってから初出場となったため。
出てきてはみたものの、打撃はパッとせず、二塁の守備もよくない、
ということで、結局大した活躍をすることなく終わってしまった。
- スミス('84〜'85) (68試合178打数36安打5本塁打18打点.202)
中心打者として期待されたが、開幕してから調子が上がらず、4月中旬には控えとなってしまった。最初の年は結局52試合しか出場できず、打率は.214と散々な成績。
普通ならばこれで解雇となるところだが、なぜかもう一年、と思ったのが大間違い。
2年目は開幕4試合めで早くも先発を外れ、16試合で.158とどうしようもなく、シーズン早々に解雇となった。
- ハーパー('88) (10試合35打数5安打2本塁打6打点.143)
開幕3試合の巨人戦は4-0,3-0,3-1とわずか1安打、次の中日戦も4打数凡退で13打数1安打とどうしようもなかったが、そこでまさかのサヨナラホームラン。しかしそれは単なるマグレ当たりだった。
それからの6試合は2-0,2-0,4-1,5-1,4-0,4-1で21打数3安打で4/25に二軍落ち。
ヤクルトの外国人選手中最短のわずか10試合で5月末に解雇となっては、多くを語るまでもない。
- マーフィー('90) (34試合109打数25安打5本塁打22打点.229)
野村監督を一年目泣かせた一人。4月は5番に座り、ホームランは1本ながら.264とまずまずの成績だった。
しかし5月に入ると当たりが止まってしまい、打率は急降下。1試合で1安打出るか出ないかの状態がいつまでも続く。途中交代をされる試合も出てきて、結局5/24の試合を最後に、二ヶ月ももたず消え去ることになった。
- オルティス('97) (20試合29打数5安打.172)
前年まで活躍したオマリーの抜けた穴を埋めるべく獲得。チャンスに強い好守の選手との触れ込みだったが、それはとんだ大間違い。キャンプに合流した途端に失格の烙印を押されてしまった。
開幕してからも出番がなく、4月は無安打。ようやく安打が出たのは5月になってから。チャンスに強いと言うかチャンスが何度も巡ってきた末にようやく安打を打つという程度で、活躍というには程遠い内容。結局球団史上最低の29打数、最低タイの5安打を打っただけで、7月上旬に解雇となった。
- ムートン('98) (30試合87打数21安打.241)
大リーグの拡張ドラフトで上位指名されるという噂があった打者。オープン戦でもセンターを中心に打ち返して長打力もあるところを見せ、期待を抱かせた。
しかし公式戦に入るとその打撃が影をひそめ、引っ張り専門の大物狙いが多くなり、結果が出ない。次第に先発を外れることが多くなり、代打専門に。そこでも成績を残せず、6月末に解雇となった。
【投手】 (外国人投手一覧) --- ブロスまでの長い道のり ---
- ビーン('85) (8試合2勝2敗7.25)
前年散々だったスミス外野手を、もう1年ということで残してはみたもののもっとダメ、結局開幕から16試合で解雇となった。
代わりの外国人選手として、弱体投手陣の強化のために来日したのがこのビーン投手。
6/9の広島戦9回表に初登板し、杉浦のサヨナラホームランで初勝利と幸先はよかった。
しかし、次の巨人戦で先発し4回に一挙4点を失いKO。
その後2試合はリードした場面のリリーフで同点に追いつかれて引き分けに持ち込まれてしまう。
気分を変えて初勝利の相手広島戦で先発。7回までに7四球を与えたものの広島打線の拙攻に助けられ、ビーンの代打岩下が押し出し四球を選んであげた1点が決勝点となり2勝目が転がり込んだ。
しかし運がよかったのもここまで。
次の大洋戦の先発では一つもアウトを取れずにわずか20球でKO。
その後の2先発でも3回KO、4回途中KO。
肩を痛めて7/13以後の登板はなく、結局8試合を投げただけで解雇となった。
- ギブソン('88) (23試合7勝11敗4.87)
野手項の解説にある通り、この年ハーパーが早々に解雇になったため、手薄な投手陣を強化する目的でやってきたのがこのギブソン。しかし、そのもくろみは初登板であっけなく打ち砕かれた。
6/15の巨人戦で先発、簑田、岡崎を四球で出し、篠塚のバントを悪送球して自ら2点を与えてしまうが、これは次に起こる出来事の序曲にすぎない。
一死一三塁となり、ここで登場したのが負傷したクロマティに代わる外国人選手として台湾からやってきたアジアの大砲こと呂明賜。
初登板のギブソンと初打席の呂との対決は、2球目を振りぬいた呂の打球がレフトスタンドへ消えていくことであっけなく決着がつけられた。
ただこの年ギブソンが残した7勝11敗という数字は、他の外国人投手と比べれば上出来であり、翌年以降の惨状をみると残してみても面白かったように思えたのだが…
- アイケルバーガー('89) (8試合0勝3敗7.04)
害人野手がペピトーンなら、トホホ投手はこのアイケルバーガー。
これまた初登板の4/9巨人戦で派手なことをやってくれた。
3-3同点の9回裏に登板して先頭打者を歩かせ盗塁を許し、バント野選と四球で無死満塁と絶体絶命。ここで打者の原にはストライクが入らない。押し出しか、と思われたがその心配はなかった。その前に暴投であっけなくサヨナラ負けになってしまったからである。
次の中日戦は6-6同点で登板したが、決勝点を与えて負け投手。
大洋戦で1回を0点に押さえるものの、広島戦では5-3とリードした場面で登板しながら一死満塁のピンチを作って降板しリリーフが打たれて早くも3敗目。
この後は敗戦処理として阪神と広島相手に2試合ずつ登板したが、5/5の試合が最後となった。
試合数は名前の文字数と同じ8試合、投球回数は文字数より短い7回2/3イニングだけ。記録を残せなかったことで記憶に残る選手として、日本プロ野球の歴史上欠かすことのできない人物となった。
- デービス('89) (36試合4勝5敗7セーブ3.97)
アイケルバーガーの後がまのリリーフ投手としてやってきたのがデービス。
しかしやはり初登板でつまずいた。
6/3中日戦で7-4リードの7回表無死二三塁に登場したが、落合四球の後に宇野に逆転満塁ホームランを打たれ、さっそく敗戦投手となる。
その後はがんばって最終的には上記の成績を残したので十分合格点だったという見方もある。ただし、実はほとんどの数字は阪神相手に稼いだもので、このカードは12試合19回2/3で2勝1敗6セーブの防御率1.37という好成績。
他カードの合計は24試合37回で2勝4敗1セーブの防御率5.35になってしまう。
このバランスの悪さが嫌われたためか、結局はこの年だけの投手であった。
- バニスター('90) (9試合3勝2敗4.04)
マーフィー同様、この年の害人も4月はよかった。先発ローテーションの一人として、初登板の4/8巨人戦では勝ち負けはつかなかったが5回を1失点。次の阪神戦で初勝利すると、4/25の阪神戦で2勝目、4/30の巨人戦では、古田のプロ入り初安打による2点を守り7回無失点で3勝目と順調であった。
しかし5/6の中日戦で打球を足に当てて途中降板してからおかしくなり、次の広島戦で5回途中5点を取られ降板、5/16の巨人戦では6回途中KOで初黒星。
5/23に左肩痛により登録抹消になり、復活を賭けた6/14の巨人戦で6回4失点で2敗目。
結局左肩は直らず、6/19に解雇されることになってしまった。
- ロックフォード('90) (9試合0勝3敗8.61)
バニスターの後にやってきたのがこのロックフォード。しかし助っ人という肩書きからは程遠いものであった。
7/15の巨人戦で初登板したが、先発して5回で3ホームランを浴びて4失点であっけなくKO。次の中日戦の先発では3回途中で4失点で2敗目。8/13の巨人戦で3回3失点で3敗目。
まったく戦力にならないまま、奇しくもバニスターと同じ9試合に出場しただけでお払い箱となった。
- バートサス('91) (18試合3勝5敗5.61)
開幕から主に先発として起用され、初登板は敗戦投手だったが、3試合目には初勝利して可能性を感じさせたが、その後はなかなか勝ち星に恵まれず、結局8月には解雇。
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