Q & A


[Q1] 国鉄球団の誕生

国鉄は今のJRです。日本プロ野球が昭和24年の秋にニリーグに分裂、 セントラルリーグは7球団が加盟を表明、 しかしリーグは8球団での発足を希望していました。 そんなおり、国鉄総裁の加賀山之雄氏が野球好きだったことから 国鉄が球団を持つ話が持ちあがり、その年の暮れにセ・リーグに加盟しました。

[Q2] 「スワローズ」の由来は?

国鉄内部で球団の愛称を募集し、決定しました。 当時の特急列車の 「つばめ」号からとったものです。

[Q3] 「アトムズ」の由来は?

サンケイ球団の一年目はスワローズでしたが、 二年目に向けて愛称を一般から募集し、決定しました。 手塚治虫作の名作マンガ『鉄腕アトム』からとったもの。 手塚氏本人が後援会副会長であり、選考に立ち会っていました。

[Q4] 昭和44年のチーム名が「アトムズ」だけなのはなぜ?

この前年の春から、サンケイの水野オーナーが体を悪くされて、 夏頃からヤクルトが業務提携を申し入れ、その年の暮れに実現しました。 表面上は対等の条件ということだったので、「株式会社アトムズ球団」が 正式な名称でした。ただし、実際はサンケイは経営から手を引き、 ヤクルトが実権を握っていました。翌年から名実共にヤクルトになりました。

[Q5] 団(ダン)野村(Don Nomura)氏がヤクルトの選手だったって本当?

本当です。野茂投手や伊良部投手の代理人(agent)として有名な野村氏は、 昭和53年に「伊東克明」、昭和54〜56年は「野村克晃」の名前で 内野手として選手登録されていました。

野村家の構成は、野村克也監督と沙知代夫人の夫婦と、克晃、克彦、克則の三兄弟ですが、克晃、克彦の二人は克也氏の実子ではなく、沙知代夫人(旧姓伊東)の連れ子です。 次男の克彦は広島→日本ハムに在籍したことがあり、 三男の克則はカツノリの名前で現ヤクルトの選手ですから、 義理の兄弟三人ともプロ野球選手ということになります。 ただし、長男と次男は公式戦には出場していません。 カツノリは平成9年4月16日の野村克也監督通算1000勝の試合で、公式戦初出場を果たしました。

[Q6] 金田投手の国鉄入団

国鉄スワローズがスタートした昭和25年の春、愛知県の享栄商業の3年生だった 金田正一投手の噂が西垣監督の耳に入りました。 練習を見た西垣監督は日本一の投手になる逸材と感じ、国鉄入団の約束を取り付けます。 夏季大会の予選で享栄商が敗退した後、卒業を待たずに中退、 もちろん他球団も金田に目を付けていましたが、約束通り国鉄に入団しました。 8月7日にセ・リーグに登録され、8月23日に初登板しています。

[Q7] 金田投手の巨人移籍

昭和27年12月に、10年選手制度というのが制定されました。 一つの球団に10シーズン勤務するとA級10年選手、 二つ以上の球団に10シーズン勤務するとB級10年選手になるというものです。 他球団への移籍などの権利や、ボーナスが支払われるなどの特典がありました。
昭和39年に国鉄からサンケイへ身売り。 金田投手は監督問題などをめぐって新フロントと対立しました。 金田投手はA級10年選手になった昭和34年にボーナスを受け取っていたので、 この時はB級14年選手の権利を持っており、権利を行使しての移籍を希望しました。 規約では下位球団から交渉をすることになっていましたが、 2度の拒否権が認められていたので、その年6位の中日と4位の広島との交渉を拒否し、 3位の巨人と契約、移籍しました。

| ヤクルトスワローズ覚書 |