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●第三章:「ごめんなさい」、あれこれ
 雨は、土曜から月曜まで殆ど絶え間なく降り続いていたけど、火曜日の朝、あたしが学校に出かける時刻には、嘘みたいに完全に止んで、晴れ間が覗いていた。
 その日の午前中に、予定日通り、生理が来た。生理の重いあたしは、ちょっと憂鬱な気分になったけど、ともあれ、先週の不用意なアレはとりあえずハズレだったことがわかって、ほっとしたのだった。もっとも、あたしの性知識が間違っていなければ、あの日はいわゆる安全日だったし、生理の周期は規則正しい方だったから、それほど心配していたわけでもなかったのだけれど。
 昼休みになっても晴天は続いたままだったので、あたしはだるい身体を引きずって、屋上に出た。お弁当は持ってきていたけど、食べる気にはならなかったし、他の人の昼食の匂いも鬱陶しかった。
 六月も半ばで、晴れていればやや暑い季節に差しかかっていたけど、幸いその日は少し風があって、屋上は居心地がよかった。
 コンクリートに直接腰を下ろして、フェンスに寄りかかってぼーっとしていると、少しは楽だった。
 安全上の理由から、屋上でボールなどを使うことは禁止されているから、昼休みと言えどもここに来る生徒はあまりいない。そういうこともあって、あたしはこの場所がわりと気にいって、頻繁に訪れていた。
 昼休みの残りも十分を切ったころ、ふと、出入り口の方から歩いてくる人影が、目にとまった。
 北原くんだった。まっすぐこちらに歩いてくるけど、なんだか顔を伏せ気味にしていて、あたしには気づいていないようだ。そのまま、数歩の位置まで接近して、初めて顔を上げて、ちょっと驚いたように目を円くする。
「早沢……」
「やあ。珍しいね。」
 軽く手を上げて応えた。学校ではあまり親しげにしない約束になっていたけど、ここには人は少ないし、まがりなりにもクラスメイトなのだから、このくらいはいいだろう。
 北原くんの反応は、めりはりのある立ち居振る舞いが身上の彼にしては、思いのほか鈍かった。
「…まあな。」
 なんかヘンだな、と思う。北原くんは、少し元気がないように見えた。特別に暗い表情をしているとか、肩を落としているとか言うわけじゃないのだけれど、なんて言うか、精彩を欠いた雰囲気だ。
「そうだ、生理、来たよ。」
 北原くんは、途端に顔を赤くして、慌てた表情になったけど、一瞬後にはその意味するところに思い当たったようで、ほっとしたように微笑んだ。
「ああ…、そっか。よかった。」
 でも、それだけ言うと、また沈んだ雰囲気に戻ってしまう。
 彼が、折角の昼休みにこんな場所にいると言うのも、ちょっと違和感を感じる。よくは知らないけど、どっちかと言うと、校庭や体育館で友達と遊んでいる方が、彼には似合う気がするのだ。だいいち、今までだってここで彼を見かけたことはない。
 ひょっとすると、体調でも悪いのだろうか、と思って、突っ立ったままの彼の顔を見上げて、気づく。
「……あれ、ほっぺた、赤いよ?」
 あたしが指摘すると、彼は気まずそうに半眼になって、赤くなった左頬に手を当てた。
「ちょっとな。殴られたんだよ。」
 心なしか、口調もちょっと沈んでいるみたいに感じる。
「……喧嘩?」
「そんなとこだ。」
「…あ、そう。」
 何があったかは知らないけど、それが原因で暗くなってるなら、あんまり突っ込んじゃ悪いかな、と思って、そこで言葉を切る。もしかして喧嘩で負けたんだったらなおさらだ。
 あたしが戸惑い気味なのを見て取ってか、北原くんは、口の端を「にっ」と上げて、ちょっとおどけたような笑顔を作った。
「ま、お前にゃ関係ねーよ。」
 言われて、そりゃそうか、と思う。
 あたしが北原くんと親しくなってから、まだ一週間もたっていないのだ。なんとなく、いつも元気で明るい人って言う印象があったけど、彼だって人間なのだから、いろいろと人にはわからない事情があるに決まっている。暗い気持ちになることだってあるのだろう。
「さーて、そろそろ戻んなきゃな。」
 時計を見て、北原くんはくるりとあたしに背中を向けて、階段の方へすたすたと歩き出した。
 なんだか、ちょっとだけ引っ掛かるものがあったけど、結局正体はわからずじまいで、あたしはその意識のささくれみたいなものを、気のせいだと黙殺することにした。

 翌日。
 生理も二日目で、あたしの体調は、昨日よりもさらにヒドい状態になっていた。いちおう鎮痛剤は飲んでいたけど、それも「飲まないよりはマシ」と言う程度の効果しかなかった。
 もっとも、それも毎回のことだ。辛さに慣れることはなかったけど、宿命だと思って諦めている。
 そんなこんなで、授業の内容なんか少しも頭に入らなかったけど、どうにかその日の日程が終わるまでを乗り切った。
 さっさと帰って横になろう、と思いながらも、あんまりてきぱきと動く気にもなれない。
 のろくさと帰り支度をしていると、不意に名前を呼ばれた。
「早沢さん。」
 なんでこんなときに限って話しかけられるかなー、と思ったけど、無視するわけにもいかない。そう考える程度の分別は、あたしにもあった。
「はい?」
 不機嫌さがなるべく声に出ないように応えながら、顔を上げる。立っていたのは、ボブカットの女の子だった。クラスメイトなのはおぼろげに記憶していたけど、名前までは思い出せない。恐らく、過去一度も口を聞いたことのない相手だ。
 そんな人が、なんで話しかけてくるのか、仄かな不安を憶える。
 勝気そうな表情が、少し癇に障った。
 彼女は、既に人の居ない、あたしの隣の席に横座りして、思いがけないセリフを口にした。
「早沢さんて、北原とつきあってるの?」
 「きたは」の辺りで、ぎくりと心臓が強張るような感触がして、鼓動が早くなるのがわかった。全身のだるさが意識にまで波及していることが幸いして、表情には出さずに済む。
「……どうして?」
 無表情のまま、努めて静かな声で、淡々と反問を返した。
 上手いリアクションじゃないことは、言ってて自分でわかった。でも、あんまり長い時間、黙ったままでいるのは、こちらの動揺を相手に知らせるようなものだ。
「昨日、屋上で北原と話してるの見かけてさ。早沢さんて、殆ど人と喋らないから、なんか特別なのかなー、って思ったのよ。」
 気さくそうな、言ってしまえば馴れ馴れしい口調が鬱陶しかったけど、言葉の内容には少し安堵した。屋上で話しているところを見ている人がいたとは思わなかったけど、どうやら、北原くんの家に入るところを見られた、とか言うわけではないようだ。
 それにしても。
 十代の女の子が、恋愛の話題に敏感なのはわからないではないけど、ちょっと話をしていたくらいで恋仲を疑うというのは、いくらなんでも短絡に過ぎはしないだろうか。それに、体調が悪いことくらい、あたしの様子を見ればわかりそうなものだ。
 その無神経さに、あたしは苛立った。
「話しかけて来たのは彼の方だし、あたしが屋上にいるのはいつものことだよ。」
 まずい、と思いながらも、自分の口調にトゲが出るのを、抑えることが出来ない。
 案の定、彼女は少したじろいだように身体を引き、慌てて言葉を継いだ。
「あ、いや、だったら、いいんだけど。ヘンなこと聞いて、悪かったわね。」
 この人も、あたしのことを「大人しくて無口で引っ込み思案」だと思っていたクチなのだろう。思わぬ反撃を受けて、戸惑っているのがありありとわかった。
 ともあれ、とりあえずそれ以上追求されずに済んだことに、あたしは内心ほっとした。
 北原くんにも言われたことだけど、あたしは、普段は意識してそうしないようにしていると言うだけで、むしろ、意思表示ははっきりとする性格だ。そして、それが思いがけないトラブルを呼びこむことがあると言うことを、身をもって知っていた。
「ごめんなさい。生理で、イライラしてるの。」
 全身の気だるさを吐き出すように、大きくため息をついてから、この場のフォローの為にそれだけ言う。
 それから、あたしはそそくさと帰り支度を済ませて、「じゃあ、さよなら」といちおう挨拶をして、教室を後にした。

 なんとなく釈然としない気分のまま、あたしは帰途についた。
 この辺りは丘陵地帯なので、坂が多い。
 前に住んでいた土地では、あたしの行動範囲内にはほとんど坂らしい坂がなかったこともあって、小学校五年生でここに引っ越して来たときは、かなり驚いたし、少し離れた場所を見ると街の作りがなんだか立体的で、その眺めにわくわくしたものだ。
 でも今日は、その坂が呪わしかった。学校は、駅前に近い低地にあったし、家はどちらかと言うと高台に位置している。ようするに、帰り道は全体的に登っているのだ。そう大した標高差ではないから、普段ならどうということもないのだけれど、今は、ちょっと傾斜が増すと、もう自転車を漕いだまま登ることが出来ないくらい、体力が落ちていた。
 仕方なく、自転車を押してのろのろと歩いていると、ちょうど、一週間前と同じようにあたしを呼ぶ声が聞こえた。ただし、今回は、声は頭上から降ってきたのだけれど。
「早沢」
「あー、北原くん。奇遇だね。」
 顔を上げると、北原くんの家の前だった。
 登下校の度にここを通るのだから、ここで彼と会うのは奇遇でもなんでもないのだけれど、とにかくそう返事をした。気の利いた受け答えを考えるのも、面倒だったのだ。
 北原くんは、二階の自室の窓から身を乗り出していた。でも、あたしの言葉を聞くとすぐに引っ込んでしまった。それで会話は終わったものだと思い、あたしはまたのろのろと歩き出した。
「おーい、早沢」
 十メートルも進まないうちに、再び、今度は背後から呼ばれた。振り返ると、北原くんがこっちに向かって駆けて来るところだった。
「なんか用?」
「いや、用って言うか……お前、調子悪そうだったから…」
「そりゃまあ、生理だからね。重いんだよ、あたし。」
「あ、そうか。……送ってやるよ。」
 生理と言う言葉のせいか、それとも好意を示すのがテレくさいのか、北原くんは視線を逸らして、わざとらしく咳払いをしてから、そう言った。
「オレが漕いでやるから、二人乗りしてこうぜ。」
「嬉しいけど…悪いよ。帰り、たいへんでしょ?それに、生理なんて毎月のことだしさ…」
 こんなことで北原くんに迷惑をかけるのは心苦しかったから、あたしは遠慮しようと、虚勢をはって出来るだけ軽い口調でそう言った。
 でも北原くんは、あたしの言葉など意に介さず、親が子供にするみたいに、あたしの頭の上にぽんと掌を置くと、
「オレが送ってやりたいんだよ。いいから、自転車貸せ。」
と言って、殆どひったくるように、あたしから自転車のハンドルを奪った。
「ほら、乗れよ。」
「あー…、ありがと。」

 そんなこんなで、結果的には、普段とあまり変わらない所要時間で家に帰りつくことが出来た。
 役目は果たしたとばかりに、マンションの駐輪場からすぐさま帰ろうとする北原くんを、あたしはどうせ甘えついでだと開き直り、引きとめて家に上がってもらった。以前の自分からは考えられない気持ちだけれど、ひとりは心細かったのだ。
 北原くんにお茶を出してから、汗を掻いたので、手早くシャワーを浴びてパジャマに着替えた。
 男の子にパジャマ姿を見せるのはちょっと気恥ずかしい気がしたけど、よく考えると、親しくなった初日に全裸まで見せてしまっている(見せただけじゃないけど)のだと気づいて、自分でちょっと可笑しくなった。
「ごめんね、待たせて。」
 なるべく急いで出てきたつもりだったけど、彼に出した紅茶のカップは既に空になっていた。
「お茶、お代わりする?」
「ばーか、調子悪いんだろーが。いいから、横になってろ。」
「あ、うん。」
 不機嫌そうに、それでも優しい言葉をかけてくれる北原くんに従って、あたしはベッドにもぐりこんだ。横になったところで生理痛やだるさがなくなるわけじゃないけど、全身の力を抜いていられるので、それだけでかなり楽になる。
 仰向けの姿勢で、枕の上で顔だけを北原くんに向ける。彼はベッドにもたれるように床に座りこんでいるので、ちょうど目の高さが近くなった。
「…お願いが、あるんだけど……」
 間近で目があった途端、もっと甘えてみたくなってしまい、おずおずと切り出す。
「なんだ?買ってきて欲しいものでもあんのか?」
「あ、いや、そーゆーんじゃないの。えーと…、ほっぺた、さわって…」
 北原くんは一瞬怯んだような顔になると、大きくため息をついた。それから、右手を伸ばして、掌であたしの頬にふれてくれる。
「これで、いいのかよ?」
 殊更に、ぶっきらぼうな口調で言う彼のその手に、あたしは自分の掌を重ねた。
 何処でもいいから、とにかく彼に触れていて欲しかった。彼の体温を感じているだけで、楽な気持ちになれる気がした。
 錯覚ではあるのだろうけれど、頬にふれた彼の手から、全身の苦痛が吸い取られて行くような感じがする。
「えへへ、ありがと。」
 それから少しの間は、雑談の時間になった。
 と言っても、あたしたちの場合、そうそう共通の話題があるわけでもない。自然な会話の流れで、今日学校で北原くんとのことを訊かれたことも、話に上った。
「ふうん、それで、そいつの名前もわかんないのか?」
「うん…。ちょっと気が強そうな人なんだけど……」
 名札くらい見とけばよかった、と思いながら、特徴にもならないようなことを一応挙げてみる。と、頬に添えられた北原くんの手が、ぎくんと強張った。
「……今村かな…?おかっぱの女じゃないか?」
「おかっぱって……、まあ、そうだけど。知ってる人?」
 ボブカットだと突っ込みたくなったけど、それよりも彼の態度の方が気になった。「気が強そう」だけでそれが誰だか特定してしまうと言うのも、いかにも不自然だ。
「同じクラスに知らねー奴がいるのなんて、早沢くらいだろ。……今村は、中三ときも、同じクラスだったんだ。それでさ。」
「……ふうん?」
 なんとなく、納得のいくようないかないような答えだ。そう言えば、彼女は北原くんのことを呼び捨てにしてたっけ。
 あたしは、ふと思いついたことを口にしてみた。
「そっか、その人、北原くんのことが好きで、それで気になった、とか…」
 ありそうな話だ、と思う。北原くんは女の子の間でもそれなりに人気があるようだったし、中学でもきっとそうだったのだろうことは、容易に想像できる。それなら、あんな些細なことで、あたしなんかに話しかけてきたと言うのも、わからないでもない。
 言いながら、重ねた彼の手を、思わずぎゅっと握り締めた。
 あたしと北原くんとは、肉体関係だけ、とは言わないまでも、明確に恋愛感情で結ばれた間柄じゃないから、もし、純粋に彼のことが「好き」だと言う女の子が現れたらどうなってしまうのか、急に不安になったのだ。
 けど、北原くんは、あたしの意見を即座に否定した。
「違うよ。」
 断定する口調に、戸惑う。
 他人の「気持ち」を、事実として知っていると言うことはあまり考えられないから、つまりは、彼はそのことを否定するだけの、確かな材料を持っていると言うことだろうか。
 考えられることは色々あったけれど、今の体調ではうまく考えが形にならず、消化不良な気持ちだけが、もやのように頭に残った。
 ふと、昨日からどうも、釈然としないことが多いな、と思う。
「…ま、いっか。うん。
 で、適当に誤魔化しちゃったんだけど……付き合ってる、ってコトにしといた方が、よかったかな?」
 今村さんの言う意味とは違うけど、事実付き合っているのだ。あたしがそれを秘密にしておきたかった理由のひとつは、自分と彼が付き合っていると言う事実が、周囲の注目を集めることを恐れたからだ。どんな形であれ、周囲との接触が増えることは、トラブルの種が増えることと同義だと言うのが、あたしの認識だった。けど、後で露呈するくらいなら、いっそはじめから事実として認知して貰っておいたほうが良かったのかも、と今更ながら思うのだ。
 けれども、二人の仲がそうして周囲に認知されてしまうことで、なし崩しに、自分たちの気持ちまで、「彼氏と彼女」と言うことになってしまうかも知れない、と言うのが、理由のもうひとつだった。少なくとも高校一年生の社会的立場とボキャブラリーでは、堂々と人に話すことも、端的に言い表すことも出来ない不安定な関係だけに、ちょっとしたことで簡単に安定指向に流れてしまいそうで、今の状態が気に入っているあたしには、怖かった。
 だから、北原くんの、
「いや、誤魔化しといて正解だろ。…今んとこはな。」
 と言う返答を聞いて、あたしは少しほっとした。
 その言葉は、またもや何か根拠がありそうなニュアンスで、それがちょっと疑問だったけれど。
 なんとなく、その話題はそこでお終いになった。
「んじゃ、そろそろ帰るかな。」
 手持ち無沙汰になったのだろう、少しだけの沈黙のあと、おもむろにそう言って、北原くんはあたしの頬から、右手を離そうとした。
 重ねた自分の手で、咄嗟にそれを阻止する。
「あん?」
「ごめん、まだ、帰らないで…。心細いよ。」
 わざとらしく、困ったように眉をしかめる彼に、あたしは本気で切実に懇願した。
「…お前な…、『毎月のことだからなんてことない』みたいなこと言っただろーが。」
「そうだけど…。平気だった、はずなんだけど…だめみたい」
 言いながら、自分の言葉に追い詰められるみたいに、泣きそうな気持ちになってくる。それが声にも出ていたらしく、北原くんはあからさまに狼狽を表情に出した。
「……わかったよ。いてやるから、寝ろ。お前が寝たら帰る。それでいいだろ?」
 しょーがねーな、とか言いながら、浮かせかけていた腰を、再び床に下ろす。
 あたしは、ベッドの枕もとの小物入れから、自分の予備の鍵を取り出して、彼に渡した。
「ごめんね。帰るとき、これで鍵、掛けて。…………その、わがまま言って、ごめんなさい…。」
 叱られた子供みたいに、あたしは消え入りそうな声で謝った。
 その様子が、よほど悄然としていたのだろう。北原くんは、ふっと表情を和らげた。
「いいさ、気にすんな。どうせヒマだしな。明日、返せばいいか?」
「ごめんなさい…」
「いいってこのくらい。………なあ、お前、あんまりわがままとか言ったこと、ないんだろ?」
 北原くんは呆れたような態度で、なおもしょげかえるあたしに向かって、意外なことを言いだした。
「……ふぇ?」
「いや、お前、その…母親、いないだろ?親父さんも忙しいみたいだし。あんまり、甘えたりしたこと、ないんじゃないかってさ。」
 あたしがいくら気にならないと言ったところで、やはり傷に触れるような気がするのだろう。言いづらそうな素振りで、母親のことを切り出す。
「あ、うん…、そうかも…」
「だからさ…」
 言いかけて、迷うようにいったん口をつぐむ。
 見る見るうちに顔を赤くしたかと思うと、テレくさそうに視線をちょっとだけ逸らして、北原くんはその続きを口にした。
「代わりに…、って言う程のことはしてやれないけど、オレになら甘えていいし、わがまま言っても、いい。さっきみたいな強がりは、やめろよ。……頼りないかも、知れないけどな。」
「………………!」
 胸の中がじいんと熱くなって、言葉の通り道が何かで塞がれたみたいに、あたしは何も言えなくなった。
 同時に、身体に触れられたり、抱き締められたりすることが、どうしてあれほど気持ち良く感じてしまうのか、ようやくわかったような気がした。
 心の中の霧が晴れるのと引き換えになったみたいに、不意に視界がぼやける。
 表情ははっきりと見えなかったけど、北原くんは、さっきよりもさらに狼狽した声を発した。
「うわっ、ちょっと待て。なんか、泣かすようなこと、言ったか?」
 いつのまにか涙が溢れて、頬の下に敷かれた彼の掌まで濡らしていた。
「ちが……」
 込み上げる嗚咽に、違うの、と言う短いひとことさえ言い切れない。代わりに、いっそう強く、彼の掌に自分の頬を擦りつけた。
 今もそうだけど、小さい頃から、家でのあたしは、いわゆる「いい子」だった。
 母がおらず、父が一人で仕事と家のことをこなして(と言っても、あたしが小学校低学年の頃までは、家政婦さんを雇ったりもしていたのだけれど)、とても苦労していたのを、あたしは物心ついた頃にはちゃんとわかっていたように思う。それが、あたしの為だと言うことも。
 だから、あたしの方も、出来るだけ父に余計な苦労をかけないよう心掛けていた。小学校に上がるくらいからは、休みの日に一緒に遊んで欲しいとか、父兄参加の学校行事に来て欲しいとか、そういうほんの些細な願いさえ、口に出すことも稀だった。
 はっきりと記憶にある、わがままらしいわがままと言えば、中学一年から二年に進級する際、父の薦めで、この土地に越してきてから三年間通っていたエスカレーター式の私立の学校から、普通の公立の中学校に転校させてもらったことくらいだ。それだって、あたしを取り巻く状況がそうさせたのであって、純粋に自分の欲求を満たすためと言うわけではなかった。
 そんなこんなで、今まで殊更に意識したことはなかったけど、北原くんに言われた通り、あたしには、人に甘えたことや、わがままを聞いてもらった経験が、皆無とは言わないまでも、他人に比べておそらくとても少ないのだ。
 現在はともかく、早い時間に就寝してしまう子供の頃は、父とまともに顔を合わせるのは、朝、出かける前の慌しい時間くらいだったから、抱いたり、撫でたりしてもらったこともあまり多くないはずだ。
 そう言うものを求める気持ちがないわけではないことは自覚していたけど、あまり親に甘える年齢でなくなるにつれて、自然に霧散したものと思っていた。
 でも、それは、ほんとうにただ慣れただけだったのだろう。
 その頃には、別の事情から、もうすっかり友人を作ることもしなくなっていて、代わりに優しくしてくれる人や、羨む対象すらいなかったことも、精神の平衡をどうにか保つのに結果的に貢献していたように思う。
 だから、今になって突然自分に許された「誰かに甘えさせてもらえること」の感触は、長い時間をかけて溜め込んだ欲求の分、他の人が相応の時期に経験したそれよりも、ずっと甘いものだったのじゃないかと思うのだ。
 今落ち着いて考えれば、相手は北原くんでなくてもよかったのかも知れない。ただ、あたしが周囲に振り撒く拒絶にも構わずに優しくしてくれたのが、たまたま彼だったと言うだけのことだ。
 ともあれ、北原くんが傍にいてくれる間は、あたしは魂の欠けやほつれを、自分の手で庇わなくてもいい。それがどれほど楽なことかを知ってしまったから、以前なら、無意識に虚勢を張って耐えていたことに、今は耐えられないのだ。
 北原くんは、暫くの間、ぼやけた視界でもはっきりそれとわかるほどにおろおろしていたけど、今はもう、諦めたように、あたしに右手を預けたまま、身じろぎもしなかった。
 あたしは、ただひたすら、誰かの傍で泣けることがどんなに幸せかを、胸に刻んだ。

 そんなこんなで、あたしから見ると、自分の方ばかりが彼に依存しているような気がして、不安を覚えないではなかったけれど、とりあえず二人の関係は良好だった。北原くんに言わせれば、甘えられるのも嬉しいのだそうだ。
 怒りっぽい人が何かにつけて怒るようなもので、優しい人は、自分の優しさを行使したい欲求が、あるのかも知れない。
 あたしはともかく、北原くんは他に友達も多いから、さすがに毎日と言うわけにはいかなかったけれど、それでも週に二度か三度はお互いの部屋を訪れたし、その度にとは言わないまでも、セックスも回数を重ねた。そうしない時も、普通の友達や恋人同士がするようなことはせず、ただ身体を寄せ合うことに時間を費やした。
 そんな風にして、一ヶ月ほどが過ぎた。
 学校でのあたしは相変わらずで、他の誰とも親しくなったりはしなかったけれど、それでも随分、自分が変わったように思えた。誰か(この場合は北原くんのことだ)に優しくしてもらえることも嬉しかったし、相手を喜ばせてあげられる自分も、同じくらい嬉しかった。
 このままの状態が、永遠に続けばいいと、望まずにはいられなかった。
 そうこうするうちに、高校生になって初めての期末テストも終わり、その後の試験休みを利用して行われた球技大会を、狙いすましたようにちょうどぶち当たった次の生理を口実に適当にかわして(あたしのような、チームワークとは無縁な上、運動能力にもあまり期待出来ない人間に足を引っ張られずに済んで、他の人もほっとしたことだろう)、一学期もようやく最後の日になった。
 あたしたちは、テスト直前になっても構わずに会っていたけど、期間中ともなるとさすがにそういうわけにもいかず、大人しくそれぞれの家で勉強をしていた。そして、生理が来たのはその直後。
 おかげで、少し長い期間、コトを控えねばならなかったし、翌日からは夏休みと言うこともあって、その日もあたしは北原くんの部屋を訪れる約束をしていた。

 いつも通り、並んでベッドの端に腰掛け、北原くんに体重をあずけながら、あれこれ雑談をする。今日は時間にも余裕があるから、普段よりも色々話しをした。
「夏休みの間も、会える?」
 ふと思いついた、と言う感じを装って、今まで訊きそびれていた質問を口にした。
 もし彼が、例えば田舎の祖父母の家とかに、長期間遊びに行く予定があったりした場合、その間は会えないことになってしまう。
「特に予定とかはねーから、電話してくれれば大体いつでもOKだよ。お前は?」
「うん、平気。」
 北原くんの言葉に、胸のうちでほっとしながら、短く答える。せっかくの夏休みに、揃って何も予定がないと言うのも、ちょっと情けない話だと言う気はするけれど、ともかく会うことに障害はないとわかって、あたしは安堵した。
 見れば、北原くんのほうも、少しほっとしたような表情だ。
「ん……と、ね」
 躊躇しながら、ちょっと前に思いついた提案を口にする。
「お父さん、帰ってこない日、あるからさ、泊まりに、来ない?」
「…………いいのか?」
 北原くんは、ちょっと戸惑い気味に、でも僅かに口の端を緩めながら、訊き返した。
 あたしの夜は、相変わらず記憶に呪われた時間だった。彼に身体を寄せて眠ることを憶えてからは、なおのことそう感じる。だから、夜の間もずうっと傍にいて貰えたらと、いつも思っていたのだ。
 こういうことを自分から言い出すのは、さすがに恥ずかしくて、声には出さず、動作だけでこくんと頷いた。
 北原くんは、次の瞬間、これ以上ないくらい表情を緩めきったかと思うと、あたしの頭を、ちょっと乱暴に自分の胸に抱き寄せた。そのまま、頭を抱えるようにしながら、頬を撫でる。
 何度か肌を重ねるうちに、もうすっかり意識に擦り込まれた彼の匂いに、それだけであたしはとろんとした気持ちになった。
 最初の頃のような緊張感は感じなくなったけど、こうして身体を密着させているときの充足感は、少しも薄れることはなかった。裸のときも、着衣越しでも、あたしだけが裸のときも、それぞれ感じ方は違うけれど、心地よさではどれも同じくらいに思えた。彼の方だけが裸、って言うパターンは、試したことがないけれど。
 髪を撫でられながら、当然のように唇を重ねる。
 キスにしても、以前は、恋人同士が、お互いの近さの確認のためにする行為だと思っていた。他の人とはしないことをする相手、と言う認識を得ることこそが、キスの価値だと考えていたのだ。それも間違いではないと今でも思っているけど、実際に体験してみると、そんな理屈がどうでもいいくらいに、ただ気持ち良かった。
 身体の敏感な部分を刺激されるような気持ち良さとは違うけど、舌を絡めて、唾液を交換しあっていると、それだけで最近はお腹の奥が熱くなるようになっていた。もっとも、これは単に条件反射かも知れない。
 長いキスを終えて、いったん離れる。
 北原くんは、あたしの首の後ろから腕を回して、リボン結びにされたスカーフをほどくと、胸のボタンに指をかけた。
 彼は、自分の手であたしの服を脱がすのが、すごく好きみたいだった。はじめての時は別として、彼に抱かれるとき、あたしは一度も自分で服を脱いだことがない。
 はじめの頃はかなり手間取っていたけど、今ではもう慣れたみたいで、片手だけで手際良く、上衣のボタンを全て外されてしまう。
 あたしも、彼に脱がされるのが好きだったから、抵抗せずに身を任せていた。
 北原くんは、そのまま、あたしの服の前を左右にはだけて、ブラジャーのフロントホックを、器用に片手でぱちんと外した。それから、隆起に引っ掛かったままのカップをずらす。
 服を着ているのに、胸だけを外気に晒す感触のコントラストがものすごく頼りなくて、我知らず、早く手で触れて貰えることを期待せずにいられない。
 北原くんは、無防備に露出させられた隆起に、下からすくいあげるように右の掌を添えて、やわやわと弄んだ。少しだけ身体をずらしてあたしの背中側に回りこむと、後ろから抱きすくめるようにして、左手も使ってくる。
「あ…ん…、んふ…」
 その暖かくて優しい愛撫に、あたしは甘い声を漏らした。
 北原くんの手の動きも、だんだん大きく、速くなる。でも、決して乱暴にはしない。
 がさつそうな…って言うか日頃は実際がさつな人なのに、いつも細心の注意を払ってあたしを扱ってくれているみたいで、そのことがとても嬉しく感じる。興奮が高まってくるとその限りではなかったけれど、それでも、こういう気遣いもあって、あたしは安心して彼に身体を任せることが出来た。
 左手が胸から離されて、スカートの横のファスナーをゆっくりと下ろす。
 その間も、右手での愛撫は続けられた。掌で全体を包むようにしてこねまわしながら、人差し指と親指の腹で、乳首を撫でたり、軽く摘んだりと言った動作を、間断なく繰り返す。そうされるうち、身体の中心部が次第に熱くなってきていた。
 愛撫を受けていない左の胸が、無性に寂しく感じる。
「ん…あ、くぅん…」
 無意識に腰を浮かせていたらしく、スルッと言う感じで簡単にスカートが下ろされる。
「早沢…、もう、濡れてるのか?」
 ちょっと驚いたように、北原くんが言う。
「あ、やだ…」
 剥き出しになった下着には、溢れた蜜が僅かに染みを作っていた。
 いまさらとは思いながらも、あたしは慌てて手で隠そうとしたけど、北原くんに素早く腕をとられてしまって果たせない。
 回数を重ねるごとに、だんだん感じやすくなってきているのは自覚していたけど、まだその部分に直接触れられてもいないのに、こんなになってしまうのは初めてだった。
「その、しばらく出来なかった、から…」
 咄嗟に思いついた言い訳を口にする。その言葉の大胆さに気づいたのは、耳元で北原くんが、「くっ」と言う笑い声を漏らした瞬間だった。
「そんなに、したかったのか?」
 半分面白がるような口調で言われて、頬がかあっと熱くなった。恥ずかしさに、そのまま何も言えなくなってしまう。言い訳はでまかせだったけど、指摘されたことは否定出来なかったからだ。
「下着、脱がすから。」
「ん…」
 北原くんの言葉に、あたしは素直に少しだけ腰を浮かせた。
 ショーツを太腿の位置まで下ろすと、北原くんはいちど身体を離して、あたしと対峙する向きで、床に跪いた。
 それから、ショーツと、足元にひっかかっていたスカートを完全に脚から抜き取ると、あたしの膝を掴んで両脚を大きく開かせる。
 急激に、頬が熱くなるのを感じる。何度繰り返しても、普段は隠している部分を見られる恥ずかしさは、消えることはなかった。心臓の鼓動も、速くなる。
 でも、こうして羞恥に耐えるのも、自分の一部を相手に捧げる行為のうちだと思うと、精神を灼き切られるような高揚を覚えた。
「やあん……」
 小さく抵抗の声を上げて、目を閉じる。それでも、おしりに直接触れるタオルケットの感触は、下半身に何も着けていないことを、容赦なくあたしの意識に伝えてきた。前をはだけられているとは言え、上半身にはまだ上衣とブラジャーが引っ掛かったままで、そのことが余計に恥ずかしさを増幅する。
 二度目のとき以来、羞恥が激しいときの方が敏感になってしまうことを、あたしは自覚していた。彼もそのことにはなんとなく気づいているみたいで、最近では意図的にあたしの羞恥心を刺激してくるようになっていた。
「は…ぅんっ…」
 内腿に唇を這わされて、そのせつない感触に「ぴくん」と全身が反応する。
 北原くんは、そのまま暫く内腿へのキスを繰り返した。次第にその位置を大切な部分に近づけて来ては、不意にまた遠ざかる。
「んっ…ふ…はぁん……」
 早く、敏感な部分に直接口をつけて欲しかったけれど、まだ、それを自分からねだってしまえるほどには理性を失っていない。それを知ってか知らずか、北原くんはなおも執拗に、内腿への愛撫を続けた。
 ようやくそれを終えると、北原くんはあたしの股間からいったん頭を離し、身体全体を一歩分寄せて来た。
 とくん、とくん、とくん、とくん……
 鼓動がいっそう高まる。
 けれども、内心の期待に反して、北原くんは今度はあたしの恥丘の斜面やその周囲に、唇を這わせた。先程と同じように、ひとしきりその動作を繰り返す。
 合間合間に、彼の吐く息が敏感な部分に当たる。その、羽毛で撫でられるような微妙な刺激に、何かに追い立てられるみたいな、焦燥感のようなものを感じて、あたしはとうとう自身を苛む肉欲に屈した。
「んく…北原く…ぅぅん…意地悪、しないで……」
 我ながらありがちなセリフだと思考の隅で思いながら、あたしは哀願した。日常では絶対に使わない、媚びるような自分の言葉と声音に、頭の中が内側から熱を帯びるような感覚を覚える。
 北原くんは、顔を上げて、確認するみたいにあたしの表情を覗き込むと、満足そうな笑みを浮かべた。
 彼が、意図的にあたしを焦らしていたことを、確信する。今日に限らず、ベッドの上では毎回こんな感じで、主導権は完全に彼のものだった。彼よりもあたしの方が冷静でいられたのは、最初のあの一回だけだ。
 北原くんが再び顔を伏せる。
 あたしは、目を瞑って、その瞬間を、じっと神経を集中して、待った。
 何秒かが過ぎて、あたしが焦れるのを狙いすましたように、伸ばした舌先を、いちばん敏感な突起に強く押し付けられ、擦り上げられる。
「きゃ…あっ…はあぁぁんっ……………く、ふ…」
 間接的な刺激でさんざん焦らされた果ての急激な快感に、あたしはそれだけで軽く登りつめてしまった。
 両手でタオルケットをぎゅっと掴み、背中を反らせて気をやったあと、あたしはへなへなと上体をベッドに倒れこませた。
「はふ…はぁ………あっ、や…はぁん…」
 大きく開かされた脚を閉じることも忘れ、仰向けになって息をつく。
 北原くんは、そんなあたしを休ませまいとでもするみたいに、いそいそと自分も服を脱いでしまうと、唇と舌を使っての愛撫を再開した。
「くふ…あ、ふぅん…ふぁ…くぅん…」
 軽く、ついばむみたいに、クリトリスへのキスを何度か繰り返してから、今度は唾液をたっぷりと乗せた舌を、身体の内部に侵入させ、くねくねと蠢かせる。所詮は舌だから、大して深い位置まで入ってこられるわけではなかったけれど、実際に神経を伝わってくる快感よりも、身体の内側を舐められる感覚そのものが、ずっと熱く理性を灼いた。
 やがて、頃合いだと思ったのか、北原くんは股間への愛撫を中断し、身体全体で、膝で跨ぐようにあたしに覆い被さって来た。
「早沢、ずいぶん、感じやすくなったよな。」
 右手で頬を撫で、反対側の頬に軽いキスを繰り返しながら、耳元で囁く。吐く息が耳にあたって、脊髄を何かが這うような感触を呼び起こす。
 もうすっかり火照りきっているはずの頬が、さらに熱くなったような気がした。彼の手にその熱が伝わってしまわないかと、余計にどきどきする。
「北原くんが、上手になったから、だもん……」
 見詰め合っていたわけでもないのに、あたしは正面から視線をずらして、子供が拗ねたような、甘えた口調で言った。
 頬に添えられた手に、急に力がこもったかと思うと、北原くんはちょっとだけ乱暴に、あたしに頬擦りをした。
「…なに?どう、したの?」
「いや、お前、ほんとに可愛いな、って。」
 あたしの言葉の何処がそれほど嬉しかったのかさっぱり理解できなかったけれど、彼は泣き笑いのような感極まった声でそう言い、今度は幾分力を抜いて、もう一度そっと頬擦りをしてくれた。
 頬への愛撫が増えるのは、北原くんが、ことさら意識的にあたしを大切だと思ってくれているときのサインだと、あたしは解釈していた。あの、前の生理のとき以来、あたしが少しでもしょげた素振りを見せたときとか、彼に喜んでもらえるようなことを言ったとき、必ず頬に触れてくれるのだ。
 ひとしきり、頬擦りやキスを繰り返してから、北原くんは、肘で支えるようにして、一度上体を浮かせた。
「いいか?」
 もどかしげに、短く確認の言葉を口にする。そろそろ、自分のほうも我慢できなくなってきているのだろう。
 あたしがこくんと頷くのを確認すると、北原くんは膝で支えた下半身を、少しだけ下げた。すっかりぬかるみきったその部分に、彼のモノが触れる瞬間、期待に、全身がきゅうんと縮み上がるような感触を憶える。
 いいかげん慣れてもよさそうなものだけど、多かれ少なかれ、この瞬間はいつも緊張した。怖い、と言うのとは違うけど、怖い、ような気持ち。うまく言えない。
 やがて、狙いを定めると、北原くんはゆっくりと腰を沈めて来た。
「あ…は、くぅんっ……」
 ぬるん、と言う感じで、そこがまるで本当の泥濘であるかのように、さしたる物理的な抵抗感もなく先端が挿入される。そのまま、半分くらいまでをあたしの内部に納めたところで、彼はいったん動きを止めた。
 また焦らされるのだろうか、と不安に思いながら見上げると、既にこちらを見ていた彼と、視線がぶつかった。
 表情で、あたしが何を考えているのかわかったのだろう。口の端を「にっ」と上げて優しい顔になると、膣口をこじるようにして挿入の角度をいつもよりもちょっと浅めに修正し、普段よりも幾分ゆっくりとした抽送を開始した。
「んっ…んく、はぁんっ……」
 身体の内壁の、いつもとは違う部分を強く擦られて、思わず大きな声を上げてしまう。
「早沢、どうだ…?」
 初めて使うワザだったから、自分でも効果の程がよくわからないのか、そう訊いてくる。
 けれども、あたしの方は、慣れない部分への刺激に翻弄されて、返事をするどころじゃなかった。もっとも、反応を見れば、程度はともかく、それが効果的であることは一目瞭然だったはずだ。
「んく…あっ…あ…んっ…」
 自分では動きにくい体位にも関わらず、あたしは無意識に肘で上体を支え、北原くんの動きに合わせて揺するように腰を動かした。
 お腹の中に快感が溜まっていくペースが、いつもよりもずっと速い。それが溢れてしまいそうなのを必死に我慢していると、ちょっと切なそうな、でもまだたっぷりと余裕を残した声で北原くんが不意に言った。
「早沢のここ、動くたびにきゅっと締まるよ…」
「…なっ!やっ、ばっ……あっ…はぅん…」
 タイミングと、あんまりにも恥ずかしいその内容に、あたしは完全に意表を突かれた。瞬間、全身に軽い緊張が疾り、余計に膣口が収縮するのが自分でわかった。
 たまたまなのか、意図してのことなのかはわからないけど、北原くんはそれを狙いすましたみたいに、今までよりもちょっと深めに自分のモノを打ち込んで来た。
 一度自覚させられたことで、過剰に意識してしまい、他の部分へ緊張を逃がそうとしても、どうしても自分のそこに力を込めずにはいられない。結果的に、膣内を埋めるモノの存在感が増して、二次曲線のグラフのように、快感の高まるそのペースまでが上がる感じがした。
 表情で、北原くんがまだ余裕を残していることが見て取れたけれど、あたしの方はもう限界だった。
 毎回、最初は必ず先に上り詰めてしまうことを、ほんのりと後ろめたく思っていたので、快感の波に必死で抗ってみる。
「あっ…ふぁ…い…んく、あっ…ふあぁぁぁんっ……」
 けれども、その甲斐なく、その後ほんの数回の抽送を受けて、全身をがくがく震わせながら、あたしは敢え無く絶頂に達した。

「はー、ごめんね、いつも先に、その……果てちゃって。」
 身支度を整えながら、あたしは北原くんにそう言った。
 あの後、体勢を変えないまま、もう一度最後までして、それで北原くんも満足してくれたみたいだったけど、あたしはやっぱりちょっと悪い気がしていた。
「なんで?いいじゃん。その方が、可愛いよ。」
 こともなげな返事。
 いいかげん慣れたのか、最近の北原くんは、何の抵抗もなくあたしのことを「可愛い」と言ってくれる。それは嬉しいのだけど、あたしの方はまだかなり恥ずかしかった。
「でも…、なんかさ、あたしばっかり、気持ち良くなってる、みたい。」
 優しくしてもらって、わがままを聞いてもらって、抱いたり、撫でたりしてもらったうえに、唯一あたしの方から与えてあげられるはずのセックスの時まで、自分のほうが気持ちいいなんて、なんだか不公平に思えて仕方がない。
「いーんだって。……あのな、お前、わかってないのかも知れないけど、男は…って言うか少なくともオレは、お前の可愛いとこが見れれば満足なんだよ。」
 仕方なさそうな顔で説明してくれる。でも、どういう意味かいまいちよくわからなくて、あたしはきょとんとして訊き返した。
「可愛いところ?」
「いや、だから、感じてる顔とか、乱れてるとことか…、イクのを我慢してるところとか、イクところとか。その他いろいろ。」
 努めて、と言う感じで淡々と返されたその答えに、一瞬の間を置いてから、あたしは真っ赤になった。
「う…え…あ……、えーと、そう言うものですか…」
「そう言うもんだ。それとな、男はなかなかイかない方がかっこいいの。」
 言い聞かせる調子で、吐き捨てるように言う。
 その彼の美意識(美学と言うべきか)は、あたしにはよく理解出来なかったけど、こういう時の彼は心底本気だと言うことがわかっていたので、納得はできた。
 テレ屋の彼は、大事なことを口にするとき、いつもより口調や表情がぶっきらぼうになるし、必ず視線を逸らし気味にする。
「……うん、わかった。じゃあ、そろそろ帰るね。」
 時刻はまだ五時だったけど、今日は来る時間が早かったから、こんなもんだろう。そう言って立ちあがり、ふと、鞄が思ったよりも軽いように感じた。慌てて、中身をチェックする。
「ありゃ、英語の辞書、忘れた。」
「なんで終業式の日にそんなもん鞄に入ってんだよ。」
「テストの最後、英語だったでしょ。終わった後、答え合わせしてて、クセで机の中に入れちゃって、そのまま。」
 朝、家を出るときは憶えていたのに、久しぶりにここに来れるってことで気がはやってたから、帰る頃にはすっかり忘れていた。
「しょーがない、取りに行く。」
「付き合ってやる。」
 やろうか、でなく、やる。
 日の長い季節だし、まだ時間も早いから、別にそんな必要はないのだけど、このごろは、断定形で言われたときは逆らわないようにしていたので、あたしは素直に彼の好意を受けることにした。終業式当日と言うこともあって、熱心な部活動以外は残っていない時刻だから、二人でいてもそうそう知り合いに見られることもないだろう。
 あたしたちは、自転車に二人乗りをして、夕刻の学校へと向かった。

 北原くんには駐輪場で待ってもらい、あたしはひとりで教室に向かった。
 夕刻の校舎の中はとても静かで、雰囲気としては嫌いではなかった。校庭から聞こえてくる、運動部の掛け声とか、自分の足音や衣擦れ、その全てが。
 ところが、自分の教室に近づくと、中から話し声らしきものが聞こえる。後ろの扉が開いたままだったので、あたしはなんとなくそっと近づき、中の様子を覗った。
 ひとりは、知らない女の子。ポニーテールの、ちょっと可愛いコだ。もうひとりは…
「……!」
 声の片方が、今村さんだとわかって、少しぎくりとする。あれ以来、特に彼女に何かを聞かれたりと言うことはなかったけれど、他に人のいない状態で、顔を合わせたい相手ではなかった。
 思わず、扉の陰に身を隠してしまう。
「もう一ヶ月だよ?あんたもさあ、いいかげん元気出したら?」
 立ち聞きするつもりではなかったけど、二人が出入り口に比較的近い位置にいたこともあって、その今村さんの声ははっきりと聞こえた。
「うん、ごめんね杏子ちゃん…」
 もうひとりの声は、ちょっとくぐもっていて聞き取りにくい。でも、何やら深刻な話のようで、ますます出て行きづらくなってしまう。
 辞書、持って帰らないわけには行かないしなぁ…
 宿題をやるのに必要だし、夏中置きっぱなしと言うのも気の引ける話だ。かと言って、それだけの為に日を改めてまた来るって言うのも馬鹿げている。
「ま、わかんないでもないけどさ。あんたモテるんだから、もっといい男と付き合えばいいじゃない。」
 どうやら、ポニーテールのコが彼氏にフラレて、それを今村さんが慰めている、と言う構図のようだった。
 いいかげん面倒になってきたあたしは、もう、気づかないふりをしてずかずかと入ってしまおうかと心に決めて、いったん扉から離れる。それから、いちおう心の準備ってことで、大きく深呼吸をしようとしたところで、ポニーテールのコの涙声が聞こえて、あたしはその場に凍りついた。
「だって…小学校の頃から、ずっと好きだったのに……武生くんのこと……」
 たけおくん。今、そう言った。
「はぁ…。しょーがないなあ。……北原の相手って、誰なんだろ。あいつ、頑として口を割らないから。」
 間違いない。北原くんのことだ。
「早沢さん?」
 誰かが廊下を歩いてくる気配がして、不意に、横から声がかかった。
 マズい、と反射的に思う。何がマズいのか、具体的に考えている余裕はなかったけれど、早くこの場所を離れなければ、と言う衝動に駆られる。でも、足が動かない。
 声をかけて来たのは、同じクラスの里宮さんだった。茫然としたまま何も答えないあたしを、彼女は心配そうに覗きこんだ。
「早沢さん?どうしたの?」
「誰かいるの!?」
 今村さんの、鋭い誰何の声。
 ようやく金縛りが解けて、あたしは弾かれるように駆け出そうとした。けど、よく見ていなかったせいで、次の瞬間、里宮さんに思いきりぶつかってしまう。
「きゃっ…」
 里宮さんは、小さく悲鳴を上げて、その場にしりもちをついた。あたしも、前のめりに倒れる。
 普段のあたしなら、後々のトラブルを避けるために、彼女に手を貸しただろう。でも、今はそんな余裕はなかった。
「里宮さん、ごめんっ……」
 素早く身体を起こすと、それだけを言い捨てて、あたしは再び駆け出した。

 駐輪場に戻ると、北原くんは、屋根を支える支柱に寄りかかって待っていた。
「よ。あったか?」
「…ごめんなさい。」
 彼の言葉には答えず、俯いたままそれだけを言った。
「なかったのか?」
 あたりまえだけど、事情が飲み込めないのだろう。的外れなことを訊き返してくる。
「あたし、北原くんに、付き合ってるコがいたの、知らなかった。ごめんなさい…」
「……今村に聞いたのか?」
 声音が、深刻になる。
「ポニーテールのコと、話してるの、立ち聞きしちゃった…。」
 苦い表情で舌打ちしてから、北原くんは大きくため息をついた。
「悪かったな、黙ってて。あいつとは…」
「わかってる。……いつか屋上で会ったとき、あのコに殴られた後だったんだね。」
 喧嘩だって言うから、てっきり男の子が相手だと思いこんでいた。あの時の「お前には関係ない」と言う言葉も、鵜呑みにしていた。よく考えれば、本当は関係があるからこそ、殊更に彼がそう言うことを口にするのだと、わかってもよかったはずなのに。
「……怒ってるのか?」
 北原くんが、心配そうに訊いて来る。
 あたしは、黙って首を横に振った。
 そうじゃない。あたしが怒らねばならないようなことは、何もなかった。
 恋人同士になったわけでもないのに、北原くんはあたしを選んでくれて、あのコと別れたのだ。結果的にはあたしの方が誘惑したかたちだったとは言え、自分の欲望であたしの処女を奪ったのだから、誠実な彼ならそうするだろう。
 今村さんが、あたしと北原くんのことを訊いてきたのも、あのコの友達だったからなんだと、今更のようにわかった。北原くんも、そう言う事情を知っていたから、「誤魔化しておいて正解」だと思ったんだ。
「そうじゃないよ…。あたし…また…」
 涙が溢れて、ぼたぼたと足もとのコンクリートを濡らした。
 北原くんに付き合ってるコがいる可能性くらい、初めから考えて然るべきだった。彼が人気があることは知っていたし、高校生ともなれば、彼女くらいいたっておかしくない。
 そのことに少しでも気づいていれば、あの雨の日、好意に甘えて、のこのこと男の子の家に上がりこむようなことはしなかったし、まして、あんな冗談を言ったりもしなかった。
 それなのに、一ヶ月以上も、自分だけ何も知らなくて、北原くんだって、辛い思いしてたのに、彼の事情に立ち入るまいとして、訊きもしないで、辛いことも、あのコとなら分け合って半分に出来たかも知れないのに、あたしは北原くんに甘えるばっかりで……
 さっきまでの、北原くんの部屋での、甘ったるい幸せな気持ちが、ひどく滑稽なものに思えた。
 自身の浅はかさが、呪わしかった。呼吸が苦しいくらい、自己嫌悪で胸がいっぱいになる。
「早沢……?」
 気遣わしげな北原くんの声が、刃物のように胸に刺さった。
「ごめん、なさい……」
 自分のいいかげんな気持ちで、何年もの間暖めていた、あのコの大切な恋を奪ってしまった。
 いい気になって、自分だけが辛いようなつもりで、自分にも北原くんにも甘えて。
 人の心を、傷つけてしまった。
 また。

続く
第三章・了
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