●第四章:今よりも、ちゃんと、もっと、ずっと |
---|
そこは、ちょっと大きめの公園の中だった。いわゆる児童公園の類ではなく、遊歩道や池などが配置された、立派なものだ。 過ごしやすい季節なら、親子連れやカップルで賑わうこの場所も、冬枯れのこの時期、それも夕方近くともなると、人気もあまりない。 遊歩道のうち、敷地内をおおむね縦断するルートを、小柄な少女がとぼとぼと歩いていた。近くの私立の中学校の、指定のコートを着ている。ショートカットに縁取られた相貌は、日本人的美観から言って整ってはいるものの、自分がそこに存在すると言う自意識以上の意志をまるで感じさせない無表情で、ガラス細工の人形を連想させる。 胸が、ずきずきと痛んだ。 少女の進行方向にある池のほとりに、やはり同じ中学校の制服を着た少年が、じっと立っていた。少女はそれを見とめたけれど、表情も、足を運ぶペースも変えることはしない。ただ、揺らぎそうになる意志と瞳を力ずくで押さえつけるように、奥歯を強く噛み締める。 少女が、感じない「フリをしている」痛みが、今は余計に痛い。 少年と少女の位置が、次第に近づく。中学生にしては、こちらもやや小柄なその少年は、顔を伏せ気味にしたまま、逃げ出してしまいそうな自身を、その場に縛りつけるように全身を固くして、身じろぎもしない。気弱そうな、見ようによっては女の子に間違えそうなその容貌に、思いつめたような表情を浮かべている。 このまま、何もせずにただ少女をやり過ごしてくれればいいと願う。腕が動かせたなら、胸の前で手を組んで祈っただろう。たとえ無駄だと知っていても。 やがて、二人の距離が、普通の話し言葉でも十分届くくらいの距離まで縮まると、少年は困ったような笑ったような、泣いたような、複雑な表情になって、何事かを少女に話しかけた。 一切の音が聴こえなかったけれど、言葉は理解できた。まるで、無声映画の登場人物になったみたいに。 けれども、少女は何も聞えなかったように、それどころか、そこに少年がいることすら知らぬげに、そのまま歩き去ろうとする。少年はそんな少女に追いすがり、辛抱強く、なおも話しかけた。 胸の痛みが、二重になる。 あの少女が感じていなければならなかったはずの痛みと、今それを思い返す自分の痛み。それが干渉しあう感触は、胸郭に割れたコップの破片かなにかを擦り込まれるようだ。なのに、悲鳴を上げることも、歯を食いしばることも出来ない。 しつこく食い下がる少年に業を煮やして、それでも無表情を保ったまま、少女は機械的に振り返り、薄く口を開く。 そして、淡々と短い一言を発すると、すぐにまた正面を向き、前と変わらないペースで、そのまま歩きはじめた。 それっきり、少年は視界から消えた。そのあと、彼がどんな姿勢で、どんな表情をしていたかは、わからない。それは確認しないまま立ち去ってしまったから。 と、今まで意識の中いっぱいに広がっていたその景色が、突然蒸発するように消えて、目の前が真っ暗になった。 いつもと違っていた。続きはどうなったのかと、訝しむ。結末は、もう少し先のはずだった。 |
ふと気づくと、いつのまにか胸の痛みが消えていた。 怪訝に思っていると、場面が変わって、薄暗い室内の光景がぼんやりとフェードインしてくる。 その部屋のベッドの上に、あたしは裸で横になっていた。 ゆっくりと顔を上げると、さっきとは別の男の子が、ベッドのふちに腰掛け、心配そうな表情であたしを覗きこんでいた。彼の右手は、あたしの頬に添えられていて、伝わってくる体温が心地いい。 痛みが消えたのは、このおかげなんだと本能的にわかって、あたしはその掌に頬擦りし、ちょっと固い感触を味わった。 いったん顔を離し、掌や指に、何度もくちづけ、舌を這わせた。それでもまだ足りない気がして、今度は指先を口に含んで舌を絡め、軽く吸ったりしてみる。 そうやって本能に任せた愛撫を何度か繰り返すうちに、混濁した意識の隙間を縫うように、少しだけ光が差した。 ふと、もう一度その男の子の顔を見上げる。 「………ああ…」 そうだ、思い出した。あたしは、この人を知ってる。 あたしに、いろいろなものをくれる、人だ。 強い抱擁と、優しい愛撫。体温と、心の温もり。広い胸、大きな掌。暖かい言葉と、深い眠り。 あたしの望む、全てを。 「きたはら…くん…」 声に出して名前を呟いた途端に、魂の温度が少しだけ上がった気がした。それは、ここが、自分が安らげる場所であることのしるしだ。 そのことが、どうしようもなく嬉しくて、あたしは身体をベッドの上に起こすと、自分の頭を彼の胸に力いっぱい押し付けて、側頭部と頬をごしごしと擦りつけた。 いつもの、洗いざらしのシャツの肌触りと、彼の匂いが、じわっと意識に染みこむ。 自分だけが裸なのが、少し恥ずかしく感じた。反面、自分を見せてあげられることに、心が震えるようなときめきを覚える。 どうして今日に限ってこんなに夢見がいいのかと、ぼんやり考えていると、不意に耳元で囁くような声が聞こえた。 「お前、ほんとに猫みたいだな。」 鼓膜が震えた。声を声として認識するその現実的な感触に、ふとした違和感が湧きあがる。 もういちど北原くんの顔を見上げる。彼は、ちょっとだけ不機嫌そうな、呆れたような表情で、あたしを見下ろしていた。 「…あれ……」 慌てて周囲を見まわすと、首の動く感触がある。自分の体重も感じる。 もういちど北原くんを見る。 「目、覚めたか?」 「え…、うわっ、夢じゃ…」 なかったのか、と言いかけたところで、自分が何も身に着けていないことを再認識し、あたしは慌てて、タオルケットを自分の胸に引っ張りあげた。 「き、ききき、北原くん?なんで、いるの?」 混乱しながら、あたしは必死で自分の記憶を手繰った。 今は夏休みで、ここはあたしの部屋で、北原くんとは、もう三週間近く会っていないはずだった。出張だかなんだかの為、いつもに比べてだいぶん遅い時間に出かける父を送り出して、ひとりになって。 そこまで考えて、ちょっと頬が熱くなり、同時に、軽い自己嫌悪を感じた。 ひとりになったあと、何もする気が起きなくて、北原くんを想って自慰をしてしまったのだ。しかも、それは今日に限ったことではない。 過去に、自慰の経験がないわけではなかったけれど、北原くんと付き合いだしてからは、していなかった。それなのに、夏休みに入ってからこっちは、寂しさに耐えきれず、いけないとは思いながらも、二日と置かずに自分を慰めていたのだった。 それから暫く、いろいろ考え事をしていて、そのまま眠ってしまったのだろう。時刻は、午後一時前。眠っていたのは、二時間足らずと言うところだ。 北原くんが今ここにいる事情は、まったく想像がつかなかった。 「何回電話しても出ねえから、直接来たんだよ。それも、今日で五回目だ。」 彼の答えは、こちらの質問の意図するところとは違うものだった。 特別に怒っているとか言う様子ではなかったけれど、その言葉に、あたしは自分が彼に対してした仕打ちを思い出して、びくんと身体を強張らせた。 「…ごめん…なさい…」 あの終業式の日、気まずいまま別れて以来、北原くんとは一度も会っていなかった。合わせる顔がないと、思っていたのだ。だから、電話にもインタフォンにも出ていない。 「ま、とりあえず、嫌われたわけじゃないらしいってことはわかったよ。」 北原くんは、弱々しいながら、少し満足そうな笑みを、意味ありげに口元に浮かべた。いまひとつ意味が掴めず、首を傾げるあたし。 「…え、えと…どういう…?」 「お前、目を覚ましてオレを見た途端、ものすごく嬉しそうな顔したろ?歓迎も熱烈だったしな。」 そう言って、今まで遊ばせていた右手を示して見せる。所々が、光を反射しててらてらと光っていた。 「……あっ…」 その正体に思い当たって、炙られでもしたみたいに、顔の温度が上がる。 夢うつつでぼんやりしていたはずなのに、先程の記憶が鮮明に甦った。 あの辺は、もう夢じゃなかったのか…。 北原くんは、赤面するあたしの胸中など知らぬげに、おもむろに深刻な表情になって、気まずそうに口を開いた。 「唯香のこと、黙ってて悪かったな。 言い訳だけど、あの雨の日さ、お前と…その、コトが済むまで、あいつのことは全然頭になかった。思い出したのは、夜になって、あいつが電話してきてからだ。 …自分でも、なんていい加減な奴だと思ったよ。」 ひどく自嘲的な口調。普段の彼からは想像もつかない。電話なら、似た声の別人だと思ったかも知れない。 彼にそんな態度を取らせてしまうのも、自分のせいなのだと思うと、居たたまれない気持ちになる。同時に、自分のおかれた立場を思い出して、氷でも放りこまれたみたいに、急に意識が冷えた。 唯香、と言うのは、ポニーテールのあのコの名前だ。茅薙唯香、と言うのがフルネーム。 中学の卒業式の日に、彼女の方からの告白で付き合い出したのだと、あの日、帰り道を二人でとぼとぼ歩きながら、ぽつりぽつりと話してくれた。 たった二ヶ月半かそこらの仲だったわけだし、それほど深い関係にはなっていないだろう。あたしとの初めての時の素振りから言って、北原くんもあのときが初めてだったはずだ。 けど、そのことはあたしにとっては慰めにならなかった。付き合いが浅いからと言って、想いが細かったのだとは限らない。茅薙さんは、北原くんのことが「小学校のときからずっと好きだった」のだ。少なく見積もっても三年越しの片想いってことになるわけで、そんなに長い間、振り向いてくれるかどうかもわからない相手を好きでいられるって言うのは、余程のことだ。 それがようやく叶った矢先の出来事だったわけで、茅薙さんの傷は、むしろ深いだろうと思えた。 北原くんの方にしても。この優しい人が、長年仲の良かった女の子を、そうと知っていて泣かせることにどれだけの葛藤があったかと思うと、心臓を針でえぐられる思いだ。 この二年と、そろそろ半年の間、あたしが極力他人と関わらずに生きてきたのは、他人を信じられないのと同時に、誰かを傷つけるのを怖れたからだった。それは、過去の、取り返しのつかない記憶と経験に由来していた。 それなのに、人恋しさに負けて、北原くんにだけ心を開くことを自分に許したのは、関わる相手を彼一人だけに限定しておけば、他の誰とも無関係でいられると思っていたからだ。 彼のことだけ考えて、彼の言うことはなんでも聞いて、彼にだけは絶対に傷を負わせないように、細心の注意を払って。かつて犯した過ちも、目の前の一人にだけ集中していられるなら、繰り返さずに済むと信じていた。 そうして誰かに関わることは、その誰かに関わる他の誰かにも関わることだと、気づかずにいた。 考えてみれば当たり前だし、普通なら経験的に知っていて然るべきことなのに、おそらくは他人との関わりを拒んできたが為に、あたしにはそんなことさえわからなかったのだ。 どうしていいのかわからなかったけれど、彼にそのまま喋らせておくわけにもいかず、まだ整理のつかない思考から、少しでもまとまった部分をどうにか口にする。 「違うの。そんなこと、怒ってるんじゃ、ない。あたしはただ、自分が嫌になって、会わせる顔、ないと思って…それで…」 急激に涙腺が緩む。けれども、今泣くことは、許されないことだった。今泣けば、彼はあたしに優しくしてくれるだろう。でも、あたしにはその資格はない。 あたしは必死に、こみ上げそうになる嗚咽を飲み込んだ。 北原くんは、あたしの言うことがよくわからないらしく、怪訝そうにこちらを見返す。 「終業式の日、茅薙さん、北原くんのことがずっと好きだったのにって、泣いてた。北原くんだって、あのコが好きだから、付き合ってたんでしょう? それを………あたしが……あたしの、せいで…………。」 それ以上続けて喋ると、我慢しきれそうになくて、あたしは言葉を切り、奥歯を噛み締めた。 あたしの言いたいことを理解したのだろう。北原くんは、口を開いて何かを言いかけたけど、思いなおしたように軽く頭を振って、やめた。 少しでも気を落ち着かせようと、あたしは大きく深呼吸をする。 「…あの日、あたしが北原くんの家に上がりこんだりしたから…。あのとき気まぐれさえ起こさなければ、あたしは、今でもひとりで生きていられたんだ。そしたら、北原くんとあのコも、ずっと仲良くしていられて……。 でも、もうだめだ。今は、自分が寂しいこと、痛いくらい知ってる。ひとりには戻れない。だけど、あのコが泣いてるの知ってて、自分だけ北原くんに甘えることも、出来ないよ……!」 怒ったような口調で、勢いに任せて一息に言いきる。 ずっと考えていたことではあったけれど、言葉にして身体の外に出してしまった途端、理性と感情の仕切りが取り払われたみたいに意識が撹拌されて、あたしは半恐慌状態に陥った。 「…どうしよう…どうしよう…どうしよう……………どう…し……………」 とうとう抑えきれず、涙が溢れるのが自分でわかった。それでも、歯を食いしばって、大きく呼吸をして、嗚咽だけは外に漏らすまいと我慢する。 俯くと、タオルケットの上にぼたぼたと涙が落ちた。 普通の恋なら、これほどまでには自分を苛まずにすんだのだろう。でもそうじゃない。 成り行きのせいもあった。先に今の関係を望んだのは、北原くんの方だった。それでも結果的に、たまたま優しくしてくれただけの人を、身体を使って自分に繋ぎとめたのだと言う意識を変えることは、あたしには出来ない。その結果あたしは、二人の恋を壊し、茅薙さんから大切な人を奪ったのだ。 何年もの間、報われるかどうかもわからない片想いを続けていた彼女の一途さに比べて、唯一と言っていい人間関係にさえ見返りを求めている自分が、ひどく汚らしく感じる。 「オレはっ…!」 黙り込んでいた北原くんが、急に大声を出した。殆ど怒鳴るようなその声に、びくんと身体を竦ませながら、思わず顔を上げて彼を見る。 そのまますぐに、言うつもりの言葉があったのだろう。彼は、口を半分開いたまま、射るような瞳であたしを見ていた。けれども、結局はいったん口を閉じて、少ししてふいと視線を逸らすと、普通の声量に戻って、言った。 「…オレが、あのときお前に声をかけたのは、お前が泣いてるように見えて…、それで、雨に構わず歩いてたのは、そんな余裕がないからだと…」 「………?」 その言葉には脈絡が感じられなくて、彼が何を言いたいのか理解できない。 「それは勘違いだったけど…でもお前、学校ではいつも一人だったし、ちょっと撫でてやったりするだけで、ものすごく嬉しそうな顔するし、抱き締めると本気で幸せそうだったし…。 寂しくて、だからオレなんかにでも、そういうことされるの嬉しいのかなってのは、母親がいなくて、親父さんも留守がちだって聞いて、すぐピンと来てたんだ。」 ひとことずつ噛み締めるように話すわりに、いまひとつまとまりにかけるそのセリフに、あたしはどう反応してよいのかわからず、ただ茫然とした。 「でさ、正直言って最初はお前の、その…身体を、自由にしたいだけだったけど、オレだけが、お前をこんなに喜ばせてやれるんだって思うと、無茶苦茶嬉しくて、お前のことだけは、どんなことがあっても絶対大事にして、誰よりも優しくして、二度と寂しい思いなんかさせないでやろうって、本気で思ってたんだ。」 そこまで言うと、北原くんは悔しそうに表情を歪め、ぶんぶんと頭を左右に振った。 「…ああくそ、上手く言えねえ。」 苛立たしげな彼の言葉とは裏腹に、あたしはようやく、言わんとすることを理解し始めていた。 北原くんは、顔を俯かせて、先ほどまでよりだいぶん沈んだ調子で、後を続けた。 「オレはお前のこと………、お前が嬉しそうな顔すると、オレも嬉しかったし、お前に言われたからじゃなくて、本気で唯香よりずっと大事だと思ってるから…」 ああ。 どうして、この人はこんなに優しいんだろう。 「お前が、唯香のことをなんでそんなに気に病むのか、オレにはよくわかんねえ。けど、きっかけはあんなだったけど、お前がもうひとりでいられないって言うなら、そのことに感謝したいくらい、お前のこと大事だから。」 限界だった。もう、がまんしきれない。食いしばっていた歯から、ゆっくりと確実に力が抜けて行く。視界が、輪郭を滲ませる。 あたしの気持ちに呼応するように、北原くんの口調も次第に昂ぶり、声も大きくなってきていた。 「だから、逢わないほうがよかったみたいなこと、言うな。泣きたければ何時間でも、一日中でも抱いててやるから、ひとりで泣くのはやめてくれ…」 そこまで言って一息ついたあと、最後に、小さく悲しげな声で付け足す。 「オレの知らないところで、お前がそんな風に泣くの、ヤなんだよ。」 相手を手放したくないのは、あたしよりもむしろ彼の方なのだと。だから、あたしひとりが負い目を感じなくてもいいのだと、北原くんは言ってくれているのだ。 あたしが、自分だけが悪いわけじゃないと頭ではわかっていても、「お前のせいじゃない」と言う言葉だけでは納得できないと知っていて、数学的な証明をするみたいに、数式の代わりに、使いなれない言葉を沢山使って。 あたしが、どうして、こんなにヒステリックと言っていいくらい茅薙さんに負い目を感じてしまうのか、詳しいわけも知らないのに。 彼の言葉は、あたしがあたしに許されるための理由をあたしに与える、そのための欺瞞かも知れない。それで、茅薙さんへの負い目が軽くなるわけでもない。 それでも、下手ではあるけれど、安易さのかけらもない彼の慰めの言葉に、あたしはもう、恋しさが溢れるのを、止めることが出来なかった。 胸を隠していたことも忘れて、タオルケットを押さえていた両手を、力なくだらんと下げる。何かを言おうと口を開きかけるけど、声にならない。 ベッドがぎしっと鳴って、北原くんがあたしに近づいた。かと思うと、腕ごと抱えるように、あたしの身体を自分の胸に抱き寄せる。 「…ふっ…んく……」 嗚咽が漏れた。 きついけど、暖かくて優しい抱擁。 どれだけ心が痛んでも、こうする他ないと、本当はわかっていた。 起きてしまったことは決して取り返しがつかないと言うのは、数少ない、あたしが経験的に他人よりもきちんと認識していることのひとつだ。 知らず知らずのうちにではあったけれど、あの雨の日に踏み出したのは、戻れない道への一歩だった。行く先は見えず、振り返っても、自分が立ち止まっていた場所も、もう見えない。これからは、暗がりを手探りで歩かねばならないのだ。 それでも。 転ばずに進むことは出来なくとも、起きるとき、手を貸してくれる人が傍にいるのだから。 せめて、この人を大切にしよう。 そう思いながら、少なくとも記憶にある限りでは初めて、大声で、あたしは泣いた。 |
約束に違わず、北原くんは、あたしが泣いている間、ずっと抱き締めていてくれた。と言っても、ほんとに何時間も泣きつづけていたわけではないけれど。 こうしているのも楽じゃないだろうに、嗚咽が止まったあとも、なかなか腕の力は緩まない。 もういいと意思表示をするまでこのままでいるつもりなのだと気づいて、あたしは軽く身をよじった。途端に、身体を締め付けていた圧力がふわっと抜ける。 先ほどとってしまったヒステリックな態度や、子供みたいに泣いてしまったことが気恥ずかしくて、顔を上げたものかどうか迷っていると、北原くんの方が身を屈めて、あたしを覗きこんできた。 視線が合うと、北原くんは、自然に顔を近づけてきた。そのまま、いつもと逆の位置関係で、唇が触れるだけの軽いキスをしたあと、頬や、顔の他の部分に何度も口づける。 泣いた後だからなのか、瞼へのキスがものすごく気持ちよかった。 それから、再び唇同士のキス。今度は、舌を入れてくる。 されるままになっていただけだったけれど、久しぶりのせいか、全身の体液が沸騰してしまいそうに熱く、気持ちよくて、あたしは、彼が舌に乗せて流しこんでくる唾液を、夢中になって嚥下した。 「んふ……」 いつのまにか体勢を入れ換えていたらしく、キスを終えて離れてみると、いつもどおり北原くんの方が上になっていた。 「えと、あたし、まだ、北原くんの物……?」 確認しておきたいことを口にすると、北原くんはちょっと困ったような顔になった。 「…嫌になったか?」 「あ…違うの。その…あたしのこと、好きなときに自由にしていいって約束、破っちゃったから…、もう資格…ないかと思って…」 泣き止んだと言っても、流石に完全復活と言うわけには行かない。あたしの声は、まだそうとう落ち込んでいた。 北原くんは、あたしが嫌になったのでないとわかると、大きく息を吐いて、あからさまに安堵した表情になった。それから、今度は横向きにあたしを抱き寄せ、右手で髪を撫でてくれる。 その感触にあたしがうっとりしていると、彼は殊更に顔を背けたまま、ちょっと照れくさそうに、でも普段より努めて優しい声で言った。 「お前と会えない間、嫌われたんじゃねえかと思って、オレは不安で仕方なかったよ。」 「…ごめん……」 「責めてるんじゃねえよ。 お前は、オレに優しくされたり、抱き締められたりするのが嬉しいって言うけど、オレからみれば、お前をオレの自由にする交換条件としては安すぎるからさ。だいいち、お前を抱き締めるの、オレだって好きだし。…どう考えても、オレの方がずっと得してる気がするだろ? だから、いつお前がオレとのことが嫌になっても、不思議じゃないと思ってた。」 声には出さなかったけれど、ヘンなの、と内心であたしは可笑しく思った。 あたしの方だって、優しくしてもらった上に、セックスの時も恐らくは自分の方が気持ち良くて、自分ばっかりが得をしているように思えて不安だったからだ。 「ん、あたしさ、優しくしてもらう代わりに…その、エッチ、させてあげてるなんて、思わないことにする。ずっと、なんとなくそう思ってたけど…。でも、自分は北原くんの物なんだって思うと、なんだかすごく安心、するの。だから、北原くんが嫌にならない限り、あたし、北原くんの物だよ。」 ようやく少し気持ちが明るくなってきて、あたしは北原くんに微笑みかけた。けど、彼は相変わらず顔を背けたままで、こちらを見ようとしない。いくらテレ屋で、真面目な話をするとき、視線を合わせないのがクセだとは言っても、これは不自然だ。 「……なんで、そっぽ向いてるの?」 あたしが不安げな声を出すと、北原くんは慌ててこっちを向いたけど、すぐにまた視線をあらぬ方向に逸らした。 「…北原くん?」 「ああ、悪い。いやほら、お前、裸だし…三週間ぶりだから、見てると我慢出来そうにねえ…」 「あっ…そか…。いや、でも、なんだ…我慢、しなくていいのに。」 泣いている間に、そのことを完全に失念していたことに気づいて、焦った。今まで、隠しもしないで裸身を晒したままだったのだ。 北原くんが顔を背けていた理由が、なんでもないことだとわかって、あたしはもう一度彼に笑いかけた。 けれども、ついさっきあれだけ大事だって言ってもらって、自分も彼を大切にしようと決心したばかりなのに、このくらいで不安になってしまうことに、やっぱり自分が彼のことを信じきれていないように思えて、内心気が咎める。 北原くんは暫く迷うようにこちらを見ていたけど、結局また、はりつかせた視線を無理矢理引き剥がすようにして、顔を背けた。今の、精神的に弱っているあたしを性欲の対象として見ることが、自分の欲望を優先させている気がして、抵抗を覚えるのだろう。 言葉使いこそ少し乱暴だけど、こんなに優しくて誠実な男の子は、他には絶対にいない。だから、仮に優しさだけに惹かれているのだとしても、やっぱりあたしにとっては、北原くんが大切なのだ。セックスが出来ると言う付加価値込みであたしを大切に思っているのだとしても、この人は絶対にあたしを裏切ったりしない。信じていい。あたしは、自分にそう言い聞かせた。 「あたし…、もっとちゃんと、北原くんの物に、なりたいな…」 自分から、北原くんにぎゅっと身体を押し付ける。 「ちゃんと…って、なんだ?」 「……北原くん、もっとしたいようにしていいのに、いつもあたしがヤな思いしないようにって、気を使ってるでしょう? 例えばさ、フェ……ととと、じゃない…えっと…」 勢い余ってフェラチオ、とモロに言いそうになり、慌てて口をつぐむ。そういう用語を口に出して言うのは、やっぱり恥ずかしい。 「…その…口で、あれ以来させようとしないのも、あたしが苦しがったから、だよね?」 このことは、ずっと気になっていた。北原くんが、口での奉仕をあたしに要求したのは、今のところあの一回だけだ。 単に、あたしがヘタで、あんまり気持ちよくなかったからかとも考えた。でも、彼があの行為に求めていたのは、肉体的な快楽よりもむしろ、あたしにそれをさせると言う、そのこと自体のような気がするのだ。 「そりゃな。お前にあんな苦しい思いさせてまで、して欲しいとは思わねえよ。」 つまり、本当はさせたい、と言うことだ。ほぼ、予想通りの答えだった。 「んと…あたしは、あたしが出来ることで北原くんが悦んでくれるなら、どんなことでも、して、あげたいな。北原くんに悦んで貰うために、自分の全部を使いたい。 …そしたら、もっと北原くんの物になれる、気がするの。」 言いながら、自分の顔が赤らむのがわかった。あたしのセリフは、要約すれば、「フェラチオさせて欲しい」と言っているのと同じだ。インランみたいに思われてしまうかも知れない。 北原くんはこちらを向き、ひとしきりあたしを眺め回したあと、音が聞こえそうなくらい、大きく喉を動かして、唾を飲み込んだ。 「いや、あの、上手に出来るかどうかは、自信、ないけど…。」 あんまり期待させてしまうのもなんなので、あたしは慌てて付け加えた。 |
北原くんは、ベッドの端に腰掛けるあたしの前に向かい合わせに立って、この期に及んでまだ迷っているのか、少しの間じっとしていた。 「この前みたいには、しねえから。」 あの時のあたしの苦しみようが、余程深く記憶に残っているのだろう。呻くように言う。 確かに苦しかったけど、あたしとしては嫌と言うわけではなかったから、彼がこうまで気にすることを、少し意外に思った。 北原くんはようやく意を決してか、ファスナーを下ろし、躊躇いがちに自分のモノを取り出した。弾け出るように現れたそれは、既にすっかり大きく、硬くなっている。 相変わらず、見ていてあんまり気持ちのいいものではないけど、前のときほどには、恐怖も不安も感じなかった。 鼻先に突き出されたそれを、どうにか視線を逸らさずに見つめながら、速まる鼓動をなぜか心地よく感じる。 「でも、気持ちよくなくて、もどかしかったら、動いても、いいよ。」 上目使いに彼を見上げて断ってから、あたしは右手を上げて、目の前に屹立するそれをおずおずと掴んだ。口に入れることに比べれば、ずっと抵抗が少ないはずのその行為に、どういうわけか激しい緊張を強いられ、理性を大量に消費する。 熱くなった意識に、視界が揺らいでいるような気がして、自分の身体を支えるように、左手を彼の腿に乗せた。 姿勢が自然と前傾するのに逆らわず、あたしはそのまま、彼のモノに顔を近づけた。体臭とはまた違う匂いが鼻をつくけど、構わずに先端に口づけ、頬や胸にするときと同じように、軽く吸ったり、ちろちろと舌で突ついたりする。 微妙に位置を変えながら同じことを何度か繰り返すうち、胸の中に充満していた微かな戸惑いの残り香もいつのまにか霧散し、目の前のそれが次第に愛しく思えてくる。 そうして段階的な心の準備を終えてから、それまでよりも大きく舌を出し、押し付けるようにして、まずはその下面を舐め上げた。 「く……」 北原くんは、短く切なげな呻きを上げたかと思うと、頭を両手で掴んできた。 一瞬ぎくりとしたけど、両手は軽く添えられただけで、それ以上のことはして来ない。単に、手持ち無沙汰になっただけのようだ。 むしろ、彼が頭に触れてくれていることに安心感を覚えて、あたしは奉仕に没頭した。舌にたっぷりと唾液を乗せて、今度は側面を、出来るだけ根元の方まで舐める。 ひとしきりそれを繰り返したあと、いちど中断して、あたしは彼の表情を覗おうとした。自分ばっかり気分を出しても、彼の方が気持ちよくなかったら、バカみたいだ。 けれども、いざ離れて顔を上げようとすると、彼の手に急に力がこめられて、あたしの頭を元の位置に押しとどめる。 それだけで、何も言ってこないところを見ると、無意識の行動だったのだろう。表情を確認することは出来なかったものの、中断を嫌ったと言うことは、少なくとも全然気持ち良くないと言うわけでもないのだろうと了解して、あたしは行為を再開した。 やがて、出来るだけ隅々まで丹念に舌を這わせてしまうと、あたしは意を決し、口腔全体をかぶせるようにして、彼のものを迎え入れる。 「ん…んむ……」 全部を口の中に納めることは出来ないけど、それでも、嘔吐感を刺激されないぎりぎりまでそれを飲み込んで、舌を絡めた。 結果的には、今日まで役立てる機会はなかったわけだけど、実を言うと、前のとき以来、どうすれば口で北原くんを気持ち良くしてあげられるのか、あたしはずっと考えていた(真面目な顔してそんなことを考えるって言うのも、客観的に見るとちょっとバカみたいではあるけれど)。 フェラチオと言うのは、物理的には、口を女性器に見たてた行為であることは疑いない。だから、咥えて舐めると言う印象があるけど、実際には、口腔全体をすぼめるようにして、口の内壁がなるべく多くそれに接して満遍なく圧迫し、擦れるようにすればいいのじゃないかと予想していた。 言うほど楽にそれが実行できるわけじゃないけど、舌先だけでなく、舌全体を彼のモノに押し付けるようにして絡め、頭ごと捻るような抽送を繰り返すうち、どうやら北原くんがちゃんと感じてくれているらしいことを、あたしは確信する。 頭にかけられた彼の手の指に、痛いくらい力が込められて来ていたからだ。それは多分、自分から動きたいのを必死に堪えているのだろうと思う。荒くなった呼吸も、耳に届いていた。 「んむ…んふ…ふぅん……」 あたしの方も、これまではどうにか理性を保っていたけれど、次第にその行為に耽溺し始めていた。前のときと同じように、お腹の奥もだんだん熱くなってくる。 舌は、他人を感じることのもっとも少ない感覚器官だ。だから、舌で感じる他人は、自分にとって特別な存在でしか有り得ない。それを実感できることが、口での行為に、自分の方までが感じてしまう理由だと、あたしは思っていた。 北原くんの呼吸が、だんだん切なげになる。そろそろお終いが近いのだとわかったけれども、改めて心の準備をする必要はなかった。自覚していなかったけど、あたしはいつのまにか、その瞬間を心待ちにしていた。 「んっ…んっ…ん…ふ…んん…」 あたしは、予想される北原くんの快感の高まりに合わせて、抽送のペースを速めた。 「は…早沢…、いくぞ……っ…」 北原くんが掠れたような声を絞り出した直後、口の中のモノが脈打つように膨張した。精一杯深くまで、頭の位置を沈めるのと同時に、喉の奥に向かって、暖かい粘液が吹き出すように放出される。 「んくっ…んっ…む……」 あたしは、夢中でそれを飲み下した。けれども、吐き出された精液は思ったよりも大量だった。口腔の容積を意図的に狭めていたこともあって、口の端からいくらか溢れさせてしまう。 前回よりも余裕があったせいか、それでもどうにか殆どを飲み込めたことに、ヘンな話だけど満足感を覚える。 「ん…ふ…んん…」 完全に射精が終わったのを確認してから、彼のモノを途中まで吐き出して、口の中に余裕を作り、唾液と舌で内部を適当に洗った。それから、硬さと大きさを失ったそれを、再び深くまで咥えこんで、搾るように、その内部や周囲に残った精液を丹念に舐め取る。 後始末のつもりだったけど、そうするうちに、それは口の中で再び膨張し始めた。 「ん…んんっ……」 感じてくれているのだと思うと、無性に嬉しくなって、あたしは奉仕を再開した。 北原くんは、暫くの間はそれを楽しんでいたけど、少しして、自分のモノがすっかり元気を取り戻してしまうと、あたしの頭を押さえたまま腰を引き、吐き出させる。 「早沢、もういいよ。」 北原くんの苦笑を含んだ声で、あたしは我に返った。 「…え…あ、やだっ……」 鼻先に突き出されたその先端に、未練がましく舌を這わせていたことに気づいて、慌てて口を閉じる。 比較的冷静なつもりだったけれど、自分から進んでした分、前回よりもずっと深く行為に没入していたみたいだ。 恥ずかしくなって下を向いていると、北原くんは、あたしの横に腰掛けて、ティッシュで口の端や顎を拭ってくれる。 「あ、えと、よかった?」 射精まで導いたのだから、よくなかったはずはないと理屈ではわかっていたけど、なんとなく間が持たなくて、そう訊いてみる。 「無茶苦茶よかった。…なあ、もしかしてお前、口でするの、好きなのか?」 一度終えたあと、そのまま二度目に入ろうとしたくらいだから、そう思われても仕方ないかな、とは思う。実際のところ、またしたいかと訊かれたら、したいと思っていた。 けど、面と向かってそう言うことを訊かれて、素直に肯定できるほど恥知らずでもない。さりとて、次からまた彼に遠慮させるような事態は避けたいので、きっぱり否定してしまうのも躊躇われた。 「えーと…いや、どうなんだろう…。どうかな。……なんで?」 「なんか、夢中でしてるように見えたし…その…飲んでくれたし……」 フェラチオをする、と言うことは、当然最後には出されたモノを飲むのだと思っていたので、ちょっと意表を突かれる。あたしが、目を円くしながら顔を上げると、北原くんは意味ありげに、にっと笑みを浮かべた。 「それにさ…」 「あ…きゃっ……」 北原くんは、左腕であたしの肩をぎゅっと抱き寄せた。それにあたしが気を取られている隙に、右手をあたしの脚の付け根の間に侵入させて来る。 「前の時もそうだったけど…、もう濡らしてるだろ…?」 北原くんは、秘唇を押し開くようにして、中指を差し入れてきた。あたしのその部分は、殆ど抵抗を示さず、濡れた感触とともにそれを受け入れてしまう。 「ん、はぅ…あっ…」 内部の粘膜を押し退けるように、根元まで挿入した中指をゆっくりと動かされ、あたしはたまらず喘ぎを漏らした。 「口でするの、好きなのか?」 肩に回した手に力を込め、あたしの髪に何度か口付けながら、北原くんは耳元で囁くように、同じ質問を口にした。その間も、右手の中指は、あたしの内部でゆっくりと蠢いている。痒い部分を軽く撫でられるような感触がもどかしくて、両脚を擦り合わせるように動かすと、途端に指の動きが止まる。 「…北原くん…ずるい……」 きちんと答えるまで焦らすつもりなのだとわかって、あたしは抗議の視線を投げた。けれども、北原くんは意に介さず、切り札とも言える言葉を口にした。 「早沢、オレの物なんだろ?」 こういう言い方をするのは、北原くんとしても勇気を要したみたいで、ちょっと声が緊張気味だった。でも、あたしの緊張は、多分その比ではなかっただろうと思う。聞いた途端、「きゅうん」と、心を掴まれるような感覚が疾って、思わず反射的に答えてしまう。 「あ……はい…。」 あたしが素直に答えたことにほっとしてか、北原くんは小さくため息をついた。その息が耳に当たって、あたしは全身をぴくんと震わせる。 「で、どうなんだ?」 中指を、今度はゆっくりと出し入れするように動かしながら、北原くんは執拗に答えを求めた。同時に、左手を腋の下から侵入させて、すっかり硬くなったあたしの左の乳首を、人差し指の腹で軽く擦り上げる。 本気で嫌がれば、北原くんもあたしをこんな風に苛めたりはしないだろう。けれども、羞恥心が歯止めになっているだけで、あたしがその質問に答えることを心底から拒んではいないと、彼はわかっている。だから、あたしが答えざるを得ないような状況を、わざと作っているのだと、思う。 素直に答えれば、もっと北原くんの物にしてもらえるんだ、と自分に言い聞かせて、消え入りそうになる声で、あたしはどうにか答えた。 「ん…好き…だけど、北原くんが、悦んでくれるから、だよ……」 恥ずかしさに、頬がかあっと熱くなり、涙が溢れた。 言い訳じみてるかなと、自分で思う。でも、これ以上苛めるのは可哀想だと思ってくれたのだろう。北原くんは一言「可愛いよ」と囁き、いったん指を引きぬいて、今度は中指と薬指を侵入させて来た。そして、その二本の指を、あたしの内部を掻き分けるように、別々に蠢かせる。 「ふぁんっ…あっ…んはぁん……」 羞恥と、計算された中途半端な刺激とに、すっかり敏感にさせられた身体は、その指の動きに否応なく反応し、口から喘ぎを漏らさせた。無意識に、より深い快感を得ようと、腰を前に突き出すような姿勢になってしまう。 「ふぁっ…ぁ、くふぅん…あっ…あっ…は……」 自分の意志とは無関係に、膣の筋肉が収縮を繰り返しているのだろう。断続的に、北原くんの指が大きさを増しているような錯覚を覚える。 自分の身体のいやらしい反応を自覚して、あたしの理性は、バターを火にかけたみたいに、急激に蕩けて行った。 前後不覚に陥りながら、夢中で快感を貪っていると、不意に耳元で、北原くんの場違いに優しげな声が聞こえた。 「早沢、一度、イっていいよ。」 既に、その気になればいつのぼりつめてもおかしくない状態だったけど、快感を持続させたくて、あたしは必死に我慢していた。けれども、北原くんのその言葉を聞いた途端、自分の意識にかけた戒めが、いとも簡単に解けるのがわかった。 直後、膣内を掻き回す指の動きが急激に大きく速くなり、同時に、左の乳首が、普段よりも幾分きつめに、引っ張るように摘まれる。 「あっ、あんっ…んっ…ふぁ、はああぁぁんっ……」 横から身体を抱え込まれている状態だったから、自由に姿勢を変えることが出来ない。それでも、北原くんの腕の中で精一杯身体を震わせて、あたしは最後の快感を全身で味わった。 「はぁ…ふぁ…は…」 「早沢、可愛かったよ。」 脱力したあたしの身体をまだ抱えたまま、北原くんは、頬や首筋に軽いキスを繰り返し、右手で、お腹やわき腹を優しく撫でてくれた。 あたしは、三週間ぶりに迎える絶頂の味と、北原くんにそこまで導いてもらった幸福感に、暫くの間、何も言えないでいた。 |
身体を休めて呼吸を整えたあと、北原くんは、あたしをベッドの上に膝立ちにさせた。それから、自分も服を脱いで、ベッドの傍らの床に座りこむ。 そうすると、北原くんの顔が、ちょうどあたしの股間の前に来ることになる。さっきのフェラチオの時と、概ね逆の位置関係だ。 北原くんは、あたしの股間に顔を近づけると、左手でお尻を抱え、右手で女の子の部分を弄り始めた。 「あ…や、ん…」 指を二本使って、とっくに準備の出来ているその部分をさらに広げたり、上端に位置する突起に直接触れないように、その周囲をそうっと撫でたりする。 そこを彼の視線に晒すのは、わりといつものことだったけど、今のこれは、なんだか観察されているみたいで、初めて見られたときと同じくらい、激しい羞恥を感じた。 「北原くん…ん、く…ふぁ…は、恥ずかしいよぅ……」 殆ど涙声で訴えると、北原くんはあたしの顔を見上げて、更に羞恥を煽るセリフを口にした。 「こうして見ると、毛、薄いな、お前。」 そう言う北原くんは、笑みを浮かべてはいるものの、言葉の内容とは裏腹に、楽しんでいると言う風じゃなくて、ただ優しげに見える。その表情には安心感を覚えたけれど、だからと言って恥ずかしさが軽減されるわけでもない。 「やぁっ……そんなこと……」 たまらず、あたしは顔を逸らし、身体をよじった。 そのみえみえの弱い抵抗に、北原くんはくすっと笑うと、 「可愛いよ、早沢。」 と言って、あたしの股間に顔を近づけ、そのまま口づける。 「んっ…く、ふ……」 それは、舐めると言う感じじゃなくて、唇にするキスみたいな、優しい感触だった。唇で挟むようにして咥えた部分に、押し付けるようにして舌を這わされ、その部分が蕩けたように熱くなる。 だんだん、膝立ちの姿勢が辛くなって来て、あたしは思わず、北原くんの頭に手をかけた。結果的に、自分の股間に余計に彼の顔を押し付けるような形になってしまったけれど、気にしている余裕はなかった。腰を下ろしてしまわなかったのは、彼の行為の邪魔になることを、無意識に避けたからだ。 あたしがふらついているのに気づいてか、北原くんは、右腕も左腕と同じように伸ばし、両手であたしのお尻を掴んだ。その感触が気に入ったらしく、胸にするみたいにふにふにとこね回す。 しばらくそんなことを続けた後、不意に動きが止まって、北原くんはあたしから離れた。 支えを失って、ベッドにへたり込みながら、半分朦朧として彼を見る。 「そんなに不満そうな顔するなよ。」 北原くんは優しげに微笑み、あたしの身体を抱え上げて、ベッドに寝かせなおした。そのまま間を置かず覆い被さって来たかと思うと、何の予告もなしに侵入してくる。 「ひゃうっ…んふぁっ…ああん………」 いつもは、了解を取ってから、って言うのが常だったから、あたしは完全に意表を突かれた。けれども、身体のほうは完全に準備が整っていたので、待っていたかのようにそれを受け入れてしまう。 身体が密着した状態で、北原くんは一度動きを止めると、頬を撫でてくれながら、急に真面目な顔になって、言った。 「早沢、今日、大丈夫な日だよな?」 生で入れちゃってからそんなこと訊いても片手落ちなんじゃないか、とか、身も蓋もないことを反射的に考えたけど、北原くんもあたしの周期は記憶しているはずだから、ただの確認だったのだろう。会わずにいた間も、彼と付き合い出してからの習慣で、基礎体温は一応測っていたし、周期から言っても間違いない。あくまで「得られるデータの上では」と言うことだけれど。 初めての時のことで、かなり肝を冷やしたのだろう、北原くんは、避妊には気をつかってくれていた。いつも、何にも言わなくても必ずスキンを使ってくれたし、今まで、安全な日に使わずにしたことはあったけれど、それはあたしのほうからお願いしたことだった。気遣いは嬉しかったけど、折角抱いてもらえるのに、いちばん深く触れ合えるはずの部分が、いつも無機質な薄膜越しと言うのは、寂しくてどうしても嫌だったのだ。でも彼は、そういうときでも、あたしの中で射精をすることはしなかった。 でも。 北原くんは、あたしが頷くのを見ると、耳元に口を寄せ、緊張気味に声を潜めて、有無を言わさない口調で言った。 「…中で、出すから。」 緊張に、身体がぎくんと強張る。 「え…、でも……」 思わず、戸惑いを口にする。けれども、北原くんがどうしてそうしたいのかは、なんとなく理解できる気がした。 そうすることで、あたしの意識に、より深く自分の印を刻み込みたいのだ。 「……ん…。」 逡巡してから、あたしは頷いた。基礎体温や周期なんて、絶対的にはアテにならないことは知っていたけれど、今だけは考えないことにする。そうすることで、彼があたしに対する所有意識を深めてくれるなら、それでいいと思った。あたしの方も、危険を度外視すれば、そうして欲しいと思う。 あたしの答えを確認すると、北原くんは、ゆっくりと抽送を始めた。 「んぅ…んっ…くぁっ…んっ……」 「イキそうになったら、言えよ。」 直前までの口での愛撫で、本当はもういつでも達してしまえそうな状態だった。でも、その言葉で、北原くんがあたしに合わせてくれるつもりなんだと直感して、必死に堪える。 「んっ…ふぁ…ん、くふぅん……んく…」 「いつもより…キツいな…」 抽送のペースを速めながら、北原くんは、呻くような声でそう言った。 普段より緊張してるから、その分下半身にも力が入っていることは自覚していたけど、それを伝えるような余裕はない。 大きく喘げば、それだけでのぼりつめてしまいそうだったけれど、口を閉じているのもそろそろ限界だった。 「んふぁっ…ふあ…はぁん…あっ…あっ……」 イってしまいそうなことを伝えようとしても、喘ぎ声しか出すことが出来ない。 それでも、あたしの様子から悟ってくれたようで、北原くんは、 「もう少しだけ、堪えて…」 と言うと、腰の動きを、深い位置での小刻みなものに変えた。 「はぁんっ…あ…は……んっ…はぅん…」 頭を振って、今すぐに達してしまいたい衝動を、無理矢理振り払う。そうしたところで、もう何秒も持ちそうになかったけれど。 「早沢っ…」 北原くんの左腕が、あたしの上半身を抱えて浮かせるようにし、次いで右腕も背中に滑り込んで来る。 抱きすくめられて、今までよりも更に身動きが取れなくなったことで、あたしは気を逸らす手段を失った。もう、成す術もなくのぼりつめるしかなかった。 「あっ、あっ、あぁっ…はっ…」 北原くんは、回した両腕であたしの体をぎゅうっと抱き締めた。同時に、いちど大きめに腰を引くと、再びいちばん深い位置まで打ち込んで来る。 「早沢っ…い……」 「あっ…は…ひぁ…ふぁっ…はああぁぁぁんっ……!」 あたしは、ひときわ大きな声を上げて、絶頂に達した。彼のモノを受け入れている部分が、大きくきゅうっと収縮し、ほぼ同時に、暖かい粘液がお腹の奥に打ちつけられる感触。 「あ…んく…はぅ…あ、はぁ……」 きつくしめつけるように全身を覆っていた快感の層が、次第に霧散しはじめるとともに、一緒にイクことが出来たのだとようやく頭で理解出来て、あたしは途方もない安堵感を覚えた。 脱力した北原くんの重みや、肩越しに聞こえる荒い呼吸が、とても心地よく感じる。 今までよりもずっと、北原くんの物になれたのだと実感しつつ、あたしは全身から力を抜いた。 |
一緒にシャワーを浴びて、身体を洗ってから、あたしたちは、いつもそうしていたように、ベッドの上で寄り添った。後戯のあと、着替えの用意もしないままバスルームに連れて行かれてしまったので、あたしはなんとなく裸のままだ。 「そう言えばさ、なんで、家に入れたの?」 さっきからずっと疑問だったことを、ふと口にする。 北原くんが来たとき、家にはあたしひとりで、玄関には鍵をかけていたはずだ。 「勝手に入ったわけじゃねえよ。エレベーターで、親父さんと会ったんだ。」 「……お父さん?なんで?」 「飛行機のチケット、忘れたんだと。十二時回ったくらいだったかな、無茶苦茶慌ててたぜ。で、お前を訪ねてきたんだって言ったら、入れてくれた。」 あたしは、内心頭を抱えた。そそっかしいのは仕方ないとしても、普通、年頃の娘がひとりきりの家に、男の子を上げたりするだろうか。 「それで、部屋まで来てみたら………そういやお前、なんで裸で寝てたの?」 「え……あ、えっと…」 今更そんなことを訊かれるとは思っていなかったので、思わず口篭もる。理由を知られたら、また北原くんに、あたしを苛めるネタを与えることになってしまう。そのことに妖しい魅力を感じないではないけど、エッチの最中みたいに気持ちが高揚している状態ならともかく、今そんなことを知られるのは、死ぬほど恥ずかしかった。 でも、北原くんはふと疑問に思っただけみたいで、あたしの狼狽を余所に、すぐその話題からは離れてくれた。 「まあいいか。で、なんか無茶苦茶うなされてたから、起こしたほうがいいかと思ったんだけど、近づいてほっぺた触ってやったら、途端に落ち着いてさ。 じゃあいいかと思って、あとはずっと見てたわけ。って言っても、十五分かそこらだけどな。」 はにかむような表情で言いながら、そのときと同じように頬に触れてくる。あたしは目を閉じて、その感触を味わった。 「そっか、あの夢が途中で終わったのは、やっぱり北原くんのおかげだったんだね。」 あたしの物言いに、引っ掛かるところがあったのだろう。北原くんは、ちょっと眉をしかめた。 「『あの夢』? ……そういや、昔のことを夢に見るから、夜寝れないって話、前に聞きかけたことあったよな。関係あんのか?」 「意外とスルドいね。……聞きたい?」 マズったかな、と思いながらも、あたしは意外に冷静だった。 「早沢が話したくないなら、聞かねえよ。」 「うん…どうしようかな…。」 迷う。多分、全部は話せないだろうと思う。 「あのさ、今日、お父さん帰って来ないの、知ってるよね。北原くん、泊まってくれないかな。うん、出来れば今晩だけじゃなくて、何日か。お父さん、一週間いないから。」 どうにかして、自宅に外泊の了解を取るとかしなければ返答できないだろうと思った。けれども、急な話題の転換にも関わらず、北原くんは即答してくれる。 「いいよ。一週間全部は無理かも知れねえけど…。」 「夜、一緒に寝てくれる?」 上目使いに、覗き込むようにして言ったあたしの言葉に、彼は赤面して言葉をつまらせつつ、首だけで頷いた。 何度となく肌を重ねた相手なのに、一緒に寝るくらいで、今更何を照れたものかと思ってしまう。 「ありがと。嬉しいな。 そのときに、話せたら話すよ。あんまり思い出したくないことだからさ、話した後、ひとりでいたくないんだ。」 |
北原くんが、外泊の根回しのついでに、着替えその他を取ってくると言って一度帰ったあと、あたしは枕を抱えて、何をするでもなくベッドに横になっていた。 一人になるとやっぱり心細くて、これでよかったはずはないと、今更のように思わずにいられなかった。その考えが意識を掠めるたびに、あの雨の日からの経緯を頭の中で組み立て直し、取り返しはつかないのだと自分を納得させる。 あたしが抱える問題は、どれひとつとして解決していなかった。昔のこともそうだし、茅薙さんに対する負い目も、少しも軽くなってはいない。他の記憶に溶かして薄めるように、少しずつ忘れていければ楽なのかも知れない。でも、忘れないことも罰なのだと、あのとき自分で定めたのだ。 話せれば、と彼には言ったけれど、いちばん大事なことは、きっと話せはしない。 北原くんといることで、痛みは和らいでも、傷が癒されることはもうないのかも知れないと、ふと思う。 それでもいい。 押しつぶそうとする力に、いつか魂が耐えられなくなったとしても。 彼が傍にいてくれるのなら、少なくともあまり痛い思いだけはせずに、あたしはおだやかに壊れてゆけるだろう。 室温にとける、氷のように。水を絶やさずとも、いずれは萎れる切り花のように。 続く |
第四章・了 |
---|