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●第五章:絆の、隠し味
 それは、放課後の教室でのことだった。
 とは言っても、土曜日だから、時刻はまだ昼過ぎだ。
 あたしはその日、日直で、日誌を書いて提出するために残っていた。転校してきてから初めての日直で、勝手が掴めないあたしは、その作業に少し手間取った。なんと言っても、前の学校では日直日誌などと言うものは存在しなかったのだ。その学校、白倉学園が私立校であるが故に特殊だったのか、それともこの辺の小学校の日直にはみんな日誌があるのかはわからないけれど。
 転校先にそこを選んだのは、父の薦めだった。白倉学園は、学力レベルがそこそこと言う程度には高い学校だったけれど、だからと言って、父が特別に教育熱心だったわけではなくて、学区に当たっている公立の小学校より圧倒的に家から近いというのと、後々受験が楽だと言うのが主な理由だ。勉強の他に、家事もそれなりにこなすあたしにとっては、これは重要なことだった。制服などと言うものを着なければならないのは、少し窮屈に感じたけれど。
 教室には、他に四人の女子が残って、あたしから机一つ隔てた席の回りに集まって雑談をしていた。会話の内容は、明日行われる授業参観についてのようだ。
「めんどくさいよねえ、日曜日に授業参観なんてさ。」
 意識の端で聞きながら、まったくだ、と思う。どのみち、来てくれる人間がいないあたしには、関係のない話なのだけれど。もっとも、当日は午前中のみの授業の上、翌日の月曜日が代休にあてられているので、考え様によっては得ではある。
 別の子が、それに応えた。
「父親も来れるように日曜にやるんだろうけど、毎年結局、殆どのコは母親が来てるもんね。うちもそうだし。」
「うん、わたしんとこも。」
「だよねえ。」
 他の子たちも、口々に同意する。どうやら、明日父親が参観に来るという子は、その場にはいないようだった。
 過去数日の分を参考にして、あたしはようやく日誌を書き終えた。
 作業をしている人間に話しかけるのは悪いと判断してか、彼女達は今まであたしに話を振ってこなかったけれど、日誌を閉じ、筆記用具を片付けるのを見て、もういいと思ったのだろう、一人が、身体ごとこちらに向き直った。
「早沢さんとこは?やっぱり、お母さんが来るの?」
 やれやれ、と思う。似たような展開には、今まで何度か遭遇していた。
 あたしが口を開くより早く、事情に思い至った他の子達が顔色を変えて、話題を振った子を、目配せや小声で制しようとする。
「ちょっと…」
 はじめはきょとんとしていたその子も、少し遅れてさっと表情を強張らせた。
「あ…!
 …その……」
 数瞬の間、落ちつかなげに視線を泳がせてから、結局その場を取り繕うことが不可能だと悟ったのだろう。その子は、悄然とした表情の隙間から、覗き見るような視線をあたしに寄越して、短く「ごめん」と謝った。
 彼女のその潔さは好ましく感じたけれど、意識と連動して表情が曇るのを、隠すことが出来ない。
 と言っても、それは気まずい場面に当事者として立ち会わねばならない憂鬱であって、自分の家族の欠損を悲しく思ってのことではない。そしてまた、そこのところを他人にはなかなか理解してもらえないことが、憂鬱に拍車をかけるのだ。
 小さくふっとため息をついて、気持ちを切りかえる。それから、意識して口の端を緩め、自分も彼女達の方に向き直りながら、掌をひらひらと振ってみせた。
「気にしなくていいよ。慣れてるから。」
 正確に意味が伝わらないのを承知の上で、決まり文句を口にする。
 半分は嘘だ。母親がいない事実を思い起こさせられること自体には、そもそも大した感慨を抱かない。慣れていると言うのは、こういう場面に遭遇したとき、「気にしなくていい」と言うセリフが淀みなく口に出せるようになったことだ。もっとも、それでその場の気まずい空気が薄れるわけでもないのだけれど。
 ところが、あたしの反応を虚勢と受け取ってか、その子はますます所在無げな表情になって、顔を俯かせた。すぐ話題を変えるなりすればいいものを、と思うのだけれど、余程自己嫌悪しているのか、そのまま黙り込んでしまう。
「あー…」
 なんであたしがフォローしなくちゃならないんだろう、と内心思いながら、口を開く。
「あのさ、そんな風に大袈裟に気を使われたんじゃ、こっちだっていちいちめんどくさくてたまらないんだよ。」
 あたしは、わざとらしく大仰に溜息をついてから、なるべく軽い口調でそう言った。
 言葉の内容は本心からのものだったけど、それはあたしなりに配慮したつもりの発言でもあったのだ。
 けど。
 彼女は俯いたまま、びくんと身体を強張らせた。同時に、他の三人が色めき立つ気配。中の一人が立ちあがると、憤然とあたしを睨みつけた。
「ちょっと、そういう言い方ないでしょう!?」
 彼女が何を咎めているのか、一瞬理解できず、あたしはきょとんとしたまま視線を返した。その隙をつくように、別の子が、こちらは腰掛けたまま、眉をひそめて言う。
「そうだよ、恩に着せるつもりはないけどさ…」
 ああ、そうか、と、あたしはようやく気づいた。「だから気にしなくていい」と言う含みを持たせたつもりだったけれど、まだ口調がキツかったのか、ニュアンスがうまく伝わらなかったのだ。
 この時、あたしはまだ冷静だった。先ほどの発言の真意を説明すれば、それで済むはずだったし、実際にそうするつもりだったからだ。残る一人の言葉を聞くまでは。
「二人とも、ちょっと落ち着きなよ。」
 クラス委員をしている、少なくとも学力で評価をするなら、頭の良い子だった。彼女は、クラスのまとめ役らしく、あたしを咎めた二人を抑えにかかった。
「仕方ないでしょう?許してあげなさいよ。」
 瞬間、意識がかあっと熱くなるのを感じる。まずい、とは、まだその当時は思わなかった。あたしの思考の中に、そういうトラブル回避のためのパターンが確立されたのは、もっとずっと後のことだ。
「別に許してくれなくていいよ。」
 激昂しかかる内心とは裏腹に、自分でもぞっとするくらい酷薄なその声に、四人もはっとしたようにこちらを見る。
 彼女の言葉が、「片親だから、人格形成に問題があっても仕方ない。だから不興を買う発言も許してやれ。」と言う意味だと、あたしにははっきりと感じ取れた。彼女が恐らくは、あたしが転入する際、あらかじめ教師にそういうことを言い含められていたのだろうと言うことも想像がついた。
 彼女達、そして恐らくは教師や他のクラスメイトも、あたしを対等の人間としてみていないのだ。
「あたしは間違ったことは言ってない。
 母親がいないことなんかあたしは不幸だとは思わないけど、おかげであんたたちみたいな勘違いした連中と付き合わなきゃならないのは不幸だと思うよ。」
 一気にそれだけ言うと、あたしは自分の鞄を掴んで立ちあがり、気圧されて何も言えないでいる四人を尻目に、振りかえりもせずに教室を後にした。

 あたしがあれほど激昂してしまったのは、きっかけは確かにあの一言だったけれど、それまでにも、周囲から腫れ物を触るように扱われるのが気になって、それがいつのまにかストレスになっていたと言うこともある。それに、あたしの方も、知らないうちに周囲の不興を多少なりとも買っていたのだろう。
 その「事件」の話がクラス中に広まるのには、二日とかからなかった。月曜日には、あたしが彼女達四人に言った言葉は、一言一句正確ではないにせよ、恐らくはクラスの全員が知るところとなっていた。
 白倉学園の初等部では、二年ごとにクラス編成が改編されることになっていた。当時は、五年生になってまだ二ヶ月足らずで、転校生のあたしに限らず、まだみんなが新しいクラスに馴染みきっていない時期だった。それでも、過去四年間(幼等部から通っている子ならば六年間)同じ学校にいれば、それまで顔見知りではなかったにせよ、いくらかの仲間意識は存在するようで、結果的にあたしは一方的に悪者にされた。あたしがその事件のことを他人に話さず、訊かれてもつっけんどんな反応しか返さなかったのに対して、四人は積極的に話を広めて回っていたようだったから、そもそも伝えられた話自体があたしの不利にしかならない内容だったと言うこともあるのだろう。
 ともかく、あたしはいきなりクラスの嫌われ者になったのだった。
 当然ながらいい気持ちはしなかったけれど、自分の方から周囲との和解に努めようと言う気にはならなかった。自分に非があるとは、少しも思わなかったからだ。
 今でも、自分だけが悪かったのだとは決して思わないけれど、やっぱりあたしの方にも問題はあったのだ。
 父とは殆どすれ違いの生活をしていたから、言いにくいことでも、必要ならば言えるときに言っておかなければ、うちの家庭は家庭として機能しない。そんなわけで、唯一の身近な肉親であるその父と、時間のかからない率直なコミュニケイションだけをして育ったあたしは、無駄口をあまり言わない子供だった。今のように、話すこと自体をしない、と言うことではなく、思ったことは思ったように言い、言いたいことだけしか言わない、と言う意味だ。そして、それが意思伝達のあるべき姿だとも思っていた。
 引っ越す前に通っていた小学校は、一学年のクラス数があまり多くなかったこともあって、殆ど全員が顔見知りと言う状態だったし、物心のつく前からの友達も多かったから、それでもよかった。後から考えれば、まったく疎まれていなかったわけではないにせよ、周囲の人間にとってあたしのそう言う性格は、世界の一部だった。
 でも、新しい環境では、あたしは異端だった。
 自分が、気に入らないことがあればそうと言う性格だったため、逆に、そうと言われなければ、あたしは自分の側に問題があると気づけなかったのだ。
 そう言う意味では、確かにあたしの人格形成には問題があったし、母親がいないことがそれに無関係ではないと、認めざるを得ない。
 ともあれ、それもこれも今だからわかることで、当時のあたしにはそんなことを自覚出来るわけもない。だから、理不尽としか思えない仕打ちに怒りを覚え、自分の側から折れることは決してしなかったし、結果としてことあるごとに衝突し合った。当然、あたしとクラスメイト達との確執は長引くことになり、結局解消されることはないままだった。

 そんなあたしでも、ひとりだけ、仲のいい子がいた。
 その子、坂崎歩は、別のクラスの男の子で、家があたしと近かった。成績はよかったけれど、気が弱く、女の子みたいな顔をしていて、身長も低く、あたしとは別の意味で苛められやすいタイプだった。およそ、あたしと気が合いそうではなかったけれど、だから、同病相憐れむと言うこともあったのかも知れない。
 やはり、周囲とはあまりうまくいっていないようだった。でも、あたしに見せる笑顔は屈託無く優しげで、可愛い顔の造作もあいまって、花が咲いたようだと思ったものだ。
 仲良くなったきっかけはもう覚えていない。ただ、母親がいないと話したときに、歩が、「かわいそう」ではなく「大変だね」と言ったことが、とても強く印象に残っている。母親がいないと言う境遇そのものよりも、それによってもたらされる苦労についてまず同情されたのは、それが初めてだったからだ。見当違いでさえなければ、同情されるのも悪い気分ではないと理解したのは、その時だった。歩の、そういうところは気に入っていた。
 それから初等部を終えるまでのほぼ二年間、歩の存在はあたしの支えだった。歩がいなければ、あたしはそんなに長い間、自分を保ってはいられなかっただろう。もっともそれは、それだけの期間、自身を省みようとする意思を、あたしに失わせていたと言うことでもあるけれど。

 初等部を終えた後、公立の中学に転校すると言う選択肢もあったけれど、あたしはそうしなかった。そんなことを言えば父が心配するのは目に見えていたし、何より逃げるみたいで嫌だったからだ。それに、中等部から編入してくる者も多く、クラスの数も増えるから、顔ぶれが大きく変わるはずだと言うことも、あたしの気持ちを軽くしていた。
 入学式の朝、配布されたクラス編成のプリントを見て、あたしの気持ちはさらに軽くなった。同じクラスに、歩の名前を見つけたのだ。中等部では毎年クラス替えが行われることになっていたけれど、それでもその年一年、歩と同じクラスでいられると言うのは、当時のあたしにとっては嬉しいことだった。
 でも、その気持ちは、二週間も持続しなかった。新学期が始まって間もなく、歩の態度が急によそよそしくなったのだ。
 初めは、あたしが何か悪いことをしたのかと思った。けれども、そのことを歩に直接訊いてみても、はっきりとした返答は得られない。なんとしても理由が知りたくて、帰り道で待ち伏せたりもしてみたけど、どうやら意図的にルートを変えたりしているようで、首尾よく会うことは出来なかった。
 そうして成す術もないまま時間だけが過ぎるうち、あたしにも次第に事情が聞こえてきた。
 どうやら、同じクラスの男子生徒に、あたしと親しげに話していたことを冷やかされたかなにかしたことが、きっかけのようだった。
 中等部になって、折角クラスが変わったばかりなのに、また以前までのような立場に陥ることを恐れたのだろう。歩が選んだのは、その要因となりそうな物、この場合はあたしの存在を、自分の意識から排除することだった。それでなくとも、十二、三歳と言えば、異性への反発が強い時期だ。仕方の無いことかも知れないと、今なら思う。でも、当時のあたしには、ただ裏切られたとしか、認識することは出来なかった。
 唯一信頼していた友人を失ったことで、あたしは他の誰も信じることが出来なくなった。同世代の他人に何かを期待することを本気で諦めたのは、この頃だったように思う。
 精神的に孤立したあたしは、心の拠り所を自分の中に求めた。家事はもちろん今までどおりにこなして、そのうえ勉強でもかなりの努力をしたと、自分では思っている。
 その甲斐あってと言ってよいものかどうか、試験では学年で一桁台の順位を毎回保っていた。クラスメイト達にも一目置かれるようになり、前年までのように、あからさまな嫌がらせをされたりはしなくなったけれど、かと言って誰と親しくなれたわけでもなく、浮いた存在であることに変わりはなかった。話しかけられれば通り一遍の受け答えくらいはしたけれど、自分から誰かに話しかけることはしなかった。他人に期待をしない代わりに、自分から他人に何かをしてやることもすまいと固く思っていたから、たまに勉強のことで質問をされても決して答えなかったし、宿題やレポートを他人に見せたりも、絶対にしなかった。秀才だけど付き合いづらい人、と言うのが、恐らくはあたしに対する周囲の評価だっただろう。
 歩の方はと言えば、それなりには上手く立ちまわったものか、以前のように苛められたりはしていなかったけれど、それでも、嫌な役割や掃除当番を押し付けられたりと言う程度のことは日常茶飯事で、立場は弱いようだった。
 同情はしなかったけれど、初めのうちは、そう言う歩を見ると苛立ったものだ。代償を支払って、「対等に扱ってもらう」ことは、対等ではない。それがわからないほど、歩はバカではないはずだと、あたしは思っていたからだ。けれど、現実に歩はそうすることを選んだのだし、支払った代償の中には、あたしも含まれているのだ。
 そんなことを際限無く繰り返し考えているうちに、あたしは次第に、いつも他人の顔色を覗ってばかりいる歩のことを、いい気味だと思うようになった。保身の為にあたしを裏切って、結果として得たものが、なおも保身にばかり気を使う毎日だと言う滑稽さを、孤高を保つ自分と比較して、冷笑していた。そうすることで、自分の境遇を惨めだと思うことから、意識を逸らしていたのかも知れない。
 歩だとて、本心から望んでそうしていたわけではないのだと言うことは、やがて忘れた。

 そうして、そんな状況が、あたしの意識に日常として定着したまま、二学期が終わり、三学期も半ばを過ぎた頃。
 忘れもしない、二月下旬の、金曜日のことだ。暦の上では春だけど、とても寒い日だった。
 いつもそうするように、あたしは、通学路の途中に横たわる大きな公園の、中央をつっきるようにして、家に向かっていた。
 ここを迂回すると、かなり余計な距離を歩かねばならない。だから、前年までは歩も同じルートを使っていたのに、この頃は迂回どころか、まったく別の、遠回りの道を使って通学しているようだった。理由は言うまでもなく、あたしを避けるためだ。
 最初のうちは苛立たしく思ったりもしたけど、この頃にはもう、その事実が意識に上ることさえ稀だった。だから、行く手に歩の姿を見とめたときは、内心かなり動揺した。
 歩は、あたしが歩いている遊歩道を少し先に行った位置の、池のほとりに立っていた。すでにあたしを発見していたようで、ちらちらと盗み見るように、こちらに視線を投げる。
 今更あたしに用事だろうかと、訝しく思う。何かを期待する気持ちは、少なくとも意識の表層には現れなかった。ただ鬱陶しくて、避けて通ろうかと一瞬思って、やめた。自分から道を変えることは、何に対してかはわからないけれど、負けることだと思った。
 湧きあがる胸の痛みを、根拠の無いものと無理矢理黙殺して、道も歩調も表情も変えないまま、予定のルートを歩く。
 やがて、あたしとの距離が、普通の話し言葉でも十分届くくらいの距離まで縮まると、歩は困ったような笑ったような、泣いたような、情けない表情になって、口を開いた。
「その……」
 身長こそ未だにあたしと大差なかったけれど、歩はいつのまにか声変わりをしていた。空気の振動が目に見えるようなその声に、謂れのない生理的な嫌悪感を覚えるとともに、そこいる少年が、もう自分の知っている歩ではないのだと言うことの証明のように感じた。
 あたしは、そちらを見やることもせずに、無視してそのまま通過しようとした。
「早沢…、あの……僕…」
 歩のその呼びかけに、急激に意識が冷える。
 仲が良かった頃は、歩はあたしのことを「りおちゃん」と呼んでいた。そのことでも、誰かにからかわれたのだろう。呼び名が苗字に変わったのは、同じクラスになってすぐ、まだ、ぎこちないながらも多少の会話は交わしていた頃のことだ。
 そして、自分達以外、周囲に誰もいないこの時でさえ、それをやめることが出来ない歩を、あたしは愚かだと思った。それはつまり、そのことをからかうクラスメイトに、歩が心底から屈服していると言うことだからだ。そうでありながら、一方ではこうして哀れな顔であたしに話しかけてくることが、ひどく身勝手に思える。
 冷たい、対象に対する期待を含まない澄んだ怒りが、意識を満たすのが、自分でわかった。
 歩調を変えないあたしに追いすがるようにして、歩はなおも何かを言っていたけど、あたしは殆ど聞いていなかった。ただ、断片的に聞こえた謝罪らしき単語だけが、纏わりつくように耳に残って、あたしを苛立たせた。
 歩があたしに許されることを期待しているのなら、今度はあたしがそれを裏切らねばならないと、当然のように思う。
 言葉が途切れた間隙を縫うようにして、足を止め、上体を捻って半身だけ振りかえった。
 左目だけで、歩を視界に捉える。その不安の表情に、僅かに希望が宿るのを見て取り、あたしは無表情を保ったまま、胸の内だけで冷笑した。そうでなくては、裏切り甲斐がないと思ったのだ。
 薄く唇を開く。
 意識の何処かで警鐘がなっているような気はしたけれど、敢えて無視した。
 そしてあたしは、その言葉を口にした。万が一にも聞き間違えのないように、明瞭な発音で。眉一つ動かさず、硬く、無機質で、魂のこもらないプラスチックのような声音で。静かで、それ故に酷薄に聞こえるだろうことを計算した口調で。
「卑怯者。」
 そのまま、あたしはすぐにまた正面に向き直り、努めて何事もなかった素振りで、前と同じ歩調で歩き出した。歩の反応は確認しなかったけれど、少なくとも、それ以上話しかけてくることも、後を追って来ることもしなかった。
 歩に、思惑通りの痛手を与えてやれたことを確信する。痛みの総量では到底返し足りないと思ったけれど、一言分の時間に凝縮した分、歩の意識を深く鋭くえぐったはずだ。そのことに、あたしは暗い満足感を覚えた。

「早沢、おいっ…」
 胸を押さえて、ベッドの上で半分うずくまる姿勢で、呻くように話すあたしの頭を、自分のパジャマ代わりのTシャツの胸にぎゅっと押し付けるように抱き締めながら、北原くんは気遣わしげな声を出した。
 その言葉で我に返って、大きく息をついて呼吸を整える。魂を食いちぎられたような気分だった。
「…ごめん、平気。落ち着いた。」
 顔を上げてみるけど、既に消灯してしまっている上、今まで瞼を閉じていて目が慣れていないので、北原くんの表情はわからなかった。ただ、呼吸の気配さえしないことから、彼の方からもあたしの表情が見えず、息を潜ませて様子を覗っているのだとわかって、ほっとする。
「…それでね、」
「早沢、もういいよ。」
 あたしが話を続けようとするのを、北原くんが制止した。
「お前、無茶苦茶辛そうじゃねーか…」
「も少しだから。ここでやめる方が、ツラいよ。」
 言いながら、本当はどっちだって変わりはしないと自分でわかっていたけど、北原くんは渋々ながらも納得してくれたみたいで、それ以上は何も言わなかった。
「ほんとに、もうほんのちょっとだから。」
 そう言い置いてから、あたしは続きを口にした。
「その子と話したの、それが最後だった。
 学校にしか、知らせてなかったみたいなんだけど、そのあと、すぐにね、その子の家は急に遠くへ引っ越して行くことになってたんだ。心の中では、あたしのことずっと気にしてて、だから、引っ越す前に仲直りしておきたかったんだろうと思う。
 ……その子にとっては、一大決心だったはずなのに、あんなこと言っちゃってさ。その子がいなくなってから、生きてるの、嫌になるくらい、後悔したよ。」
 直前に話を中断されて、ひといき入れられたことも手伝って、先ほどまでよりずっと淡々と話せたことに、少しだけ安堵する。この部分だけは、なんと語って聞かせればいいか、事前に考えて決めておいたのだ。
「おまけに、公園でのやり取り、誰かに見られてたらしくて、噂になっちゃってさ。それで居たたまれなくなって、結局その年で白倉やめちゃったんだ。その頃のこと、未だに夢に見るんだよ。
 …………だいたい、そういうこと。」
 努めて軽めの口調で括ってから、これで納得してもらえるかどうか心配になって、あたしは北原くんの気配を覗った。とりあえず話が終わったことにほっとしたのだろう、身体に触れる腕の動きで、肩の力が抜けるのがわかる。
「お前が悪いわけじゃ、ねえじゃねーか…」
「全部自分が悪いと思ってるわけじゃ、ないよ。
 でも、それまでもずっと、他人に無神経にヒドいこと言ってたなって、自分でわかっちゃって。口聞くたびに、いつのまにか知らないで人を怒らせたり傷つけたりしてるんじゃないかって言うの、頭から離れなくて、怖くて。学校変わってからは、ほんとに必要最低限しか喋らなかったよ。」
 そして、二年もたって、ようやく親しい人が出来たかと思えば、今度は話してもいない相手を傷つけてしまった。仕方のないことなのかも知れないけれど、そう簡単に割り切れはしない。自分が、救い難く愚かに思える。口に出せば、北原くんもいい気がしないだろうことはわかっていたので、心の中でだけ、そう付け加えた。
 言葉が終わってから、一拍おいて、北原くんはあたしの耳元で大きく溜息をついた。
「どうってことない話で、がっかりした?」
「悪い、そんなつもりじゃねえよ。たださ……」
「……ただ?」
 逡巡する口調の北原くんを、促す。
「……いや、やっぱいい。話聞いただけじゃわかんねえことだってあるんだろうしな。知った風なこと、言いたくねえや。」
 何が言いたいのかは、なんとなく想像出来た。と言うか、話をする前から、彼がそう言う感想を抱くであろうことは、予想がついていた。
 多分彼は、あたしが、自分のしたことを気に病みすぎだと思っているのだろう。少なくとも、何年もの間、変わらずに胸を痛め続けるようなことではないと。
 あたしが何も言わないでいると、北原くんはもう一度、気を取りなおしたように小さく溜息をついた。
「あの時、それでよくオレのこと信用してくれたな…」
 心底ほっとしたように言う。最初にあたしに声をかけた、あの雨の日のことを言っているのだろう。その経緯を思い、あたしは少し申し訳ない気持ちで、事情を説明した。
「ごめん、最初から信用してたわけじゃ、ないの。ほんとは、断ってそのまま帰ろうと思ってた。
 でも北原くん、傘渡してさっさと行っちゃったから、あのまま知らんぷりして帰ったら、後でトラブルになるかもって、思っただけなんだ。」
「そっか。ラッキー…。」
 安堵を含んだ声で、北原くんはわざとらしくおどける。けれども、この二ヶ月間の付き合いでの経験から、ふざけた口調でも、彼が本気でほっとしていることが、あたしにはわかった。
 そうなのだ。あの時、状況やお互いの言動が、ほんの少しでも違っていたら、あたしたちはこう言う関係にはならなかっただろう。そして、その後悔してもおかしくない結果を、彼はポジティブに受けとっている。それがわかったから、あたしは躊躇いながらも、自分に言い聞かせるようにして、言った。
「……でも、今は、世界でいちばん、信じてるから。」
 他人への信頼を口にすることは、あたしにとってはとても勇気のいることだ。だからこそ逆に、本当に彼を信じているのなら、言葉で伝えねばならないと思う。
 それが伝わったのかどうか、北原くんはもう一度、左腕であたしをぎゅっと抱き締めた。それから、窮屈そうにたたんだ右手で、あたしの首筋から頬を撫でて、そっと放す。
「もう、寝ようぜ。ゆっくり、眠っていいから。」
「うん。ありがとう。おやすみなさい。」
 返事を聞くと、北原くんは、今まであたしを抱き締めるために横臥していた姿勢を、仰向けに戻した。
 一人用のベッドは、いくらあたしが小柄だとは言っても、二人で並んで横になるには流石にちょっと窮屈だったけど、その分、寄りそうようにしていられるのが、嬉しかった。
 北原くんの肩に、頭を預けるようにして、目を閉じる。
 少し、胸が痛んだ。自分は、ずるいかも知れないと思う。話した内容から、今のあたしの在り方に、北原くんがどれだけ納得してくれるかはわからない。でも、彼は昼間、あたしが夢にうなされていたのを見ている。眠っている時の自分がどんな風か、あたしは自分では知らないわけだけれど、彼の傍で「猫みたいに幸せそうに眠っている」時と、そうでない時のギャップを、彼は実感として知ってしまっていると言うことだ。
 だから、彼はきっと今日以降、あたしの傍にいられない夜を、いくらかでも後ろめたさを感じずには過ごせないだろう。そのことは、彼の意識に、あたしの存在をより強く深く、ほどけないように絡みつかせることになる。そうとわかっていて、あたしは、夢とそれに纏わることを話したのだ。
 彼が既に寝息を立て始めているのを確認してから、あたしはそれでも聞こえるかどうかと言う程度の小声で、「ごめんね」と呟いてから、意識を安息に沈めた。

 翌朝目覚めると、時刻は既に昼近かった。
 いつものクセで、エアコンはタイマーで切れるように設定しておいたから、部屋の中はものすごい暑さと湿度になっていて、空気が肌に纏わりつくようだ。その上、狭いベッドに二人で寝ていたものだから、あたしも北原くんも、汗だくになっていた。
 この状況で、よくもこんな時間まで目が覚めなかったものだと自分で呆れる。北原くんの方はとっくに目を覚ましていたけど、あたしがしがみついて放さなかったので、窓を開けることも、勉強机の上に置いてあったエアコンのリモコンを取りに行くことも出来なかったのだそうだ。起こせばいいのに、と思うけれど、そう言ったところで、彼が、眠っているあたしを起こしたりしないだろうことは予想がつく。
「ま、よく寝られてよかったな。」
 あたしが起きて、ようやくつけることが出来たエアコンの吹き出し口の下に陣取りながら、北原くんはちょっと疲れたような表情でそう言った。
「あー…、ごめん。こんなに寝ちゃったの、初めてで。目覚まし、かけとけばよかったね。おなか、減ったよね。すぐ、朝御飯作るから…。」
 昨日は、十一時頃就寝したから、まる十二時間寝ていたことになる。それも、途中で目覚めもしなかったし、頭の中に夢を見た感触も残っていない。昨夜、自分であれだけ、ただでさえ忘れられない記憶を、さらに意識の表層近くに掘り出すようなマネをしたのに。
「待て待て。慌てなくていいって。」
「でも…」
「とりあえず、今日は窓開けるか、エアコン付けっぱなしで寝ような。」
 北原くんは、ようやく人心地、と言う表情で何気なく口にしたけど、その言葉で、彼が今日も泊まって行ってくれるつもりらしいと気づいて、嬉しくなった。約束したこととは言え、いつまでとはっきり確認したわけでもないし、根回しなんかで負担をかけていると言うのもあって、不安だったのだ。
「うんっ。」
 電気代はもったいないけど、今晩はエアコン付けっぱなしにしようと決心しながら、思わず必要以上に意気込んで答えてしまう。
 意識が完全に覚醒してしまうと、あたしはいつになくすっきりした気分になっていた。普段からは考えられないくらい、長く深い睡眠をとれたことと、とりあえず話せるだけのことは話してしまえたおかげだろうか。
 とりあえず少しは汗が引いたのか、北原くんは吹き出し口から離れ、再びベッドに近づいて、あたしの腕を掴んだ。
「んじゃまあ、汗でべたべただしさ、とりあえずメシの前に風呂貸してくれ。」
「え、うん、もちろんいいよ。……って、あたしも?」
 何度か使っている(そもそも、昨日使ったばっかりだ)こともあって、場所は当然知っているし、残念なことにフルタイムバスとかじゃないので、特に使い方なんかがあるわけでもない。にも関わらず、彼があたしを一緒に連れて行こうとすることに、あたしは今更ながらうろたえた。
「お前だって汗掻いてるだろ?」
 当然のように言う北原くんの言葉に、昨日あたしが、一緒に寝てほしいとねだった時の彼の心境を、ようやく理解出来たような気がした。それ以前の行動からの流れでなく、「これこれこういうことをしよう」と宣言をしてからそれだけを独立して行うことは、何か儀式めいていて特別な感じがする。普段はしないことなら、なおさらだ。セックスの後で、寄り添ったり、一緒にシャワーを浴びたりするのとは、精神状態の違いもあるけど、それをすること自体の意味合いも違うように思えた。今、北原くんの方が強気でいられるのは、こうして二人して汗だくになったことに、あたしが責任を感じていることを彼が知っているからだ。
 結局あたしは、恥じらって見せる程度の抵抗しか出来ないまま、バスルームまで手を引いて連れて行かれてしまった。

 観念して服を脱ぎ、先にバスルームに入ると、あたしはまず、シャワーから出すお湯の温度を適当に調節した。なんとなく、今くらいの季節なら、北原くんは冷水を浴びたがりそうなイメージがあったけど、別に文句もないみたいで、ちょっと意外に感じる。
 純粋に身体を洗う目的であるにも関わらず、男の子と一緒にバスルームにいると言う状況が微妙に気恥ずかしかった。それに、このシチュエーションは、初めてのあの時に似ている。あの時の恥ずかしさと緊張を、まるで今感じているみたいに思い出して、鼓動が高鳴るのを抑えることが出来ない。
 そんなこんなで、少し硬くなってシャワーに当たっていると、北原くんは、後ろからあたしに「ぺと」とくっついてきた。そのまま有無を言わさず抱きすくめ、あたしの頭に自分の顔を乗せるようにしたかと思うと、「はー」と気持ち良さそうに吐息を漏らす。
 少しの間、そのまま黙って汗を落とした後、北原くんはおもむろに姿勢をかがめ気味にし、今度はあたしの肩に顎を乗せて、何やら楽しそうに「くくく」と喉の奥で笑った。
「……なあに?」
「やー、この角度から見るの、好きなんだよ。」
 何を?と思いながら横目で見やると、彼はどうやらあたしの身体を見下ろしているようだった。その角度から、どこまでが見えているのかはいまいち判断しづらいけど、どうにも、折角後ろを向いているのに、身体の前面すべてを彼の視線に晒しているような気がして、頬と胸がかあっと熱くなる。
「あー…北原くん……恥ずかしい…。」
 とは言え、別に嫌な気分と言うわけでもないのだけれど。
 北原くんに裸を見られることも、そのことによって羞恥を憶えさせられることも、今のあたしにとってはそれぞれ精神を高揚させる要素のひとつだ。ただ、こんな朝っぱら(時刻は昼近くとは言っても)からおかしな気分になってていいのだろうか、と、どうしても思わずにはいられない。だいいち、まだ朝御飯さえ食べていないのだ。
 でも、北原くんの方はそんなことはおかまいなしで、調子に乗ってあたしの胸を、両手を被せるようにして触ってきた。
「ちょ……やだ。ねえ……ってば…」
 身をよじって逃れようと試みるけど、しっかりと抱きすくめられてしまっていて叶わない。抵抗を意にも介さず、ゆっくりとあたしの身体の感触を楽しんでしまうと、北原くんは一端身体を離した。
「…はぁ。もう、朝っぱらから何考えてるかなー。」
 あきれ混じりにぼやきながら、振りかえって視線を投じると、北原くんは、あたしのボディスポンジを手に取ったところだった。
「…身体、洗うの?」
「ああ。」
 あたしが訊くと、そのスポンジにボディソープを垂らしながら、北原くんはなにやらにやけながら頷いた。
 お風呂なんてあんまり好きじゃなさそうなのに、と、また少し意外に思う。
 どうせ夜にはまた入浴するのだし、特に予定があるわけではないとは言え、大幅に寝坊してしまっているのだから、あたしは、今はとりあえず汗を落とすだけのつもりだった。女の子のお風呂は時間がかかるものだ。あんまり朝御飯を遅らせるのも申し訳無いし、あたしだってそれなりに空腹だ。
 けど、そう言うことなら、あたしも洗わないわけにはいかないかと、思いなおす。なんと言っても、この人があたしよりも綺麗好きと言うのは、感覚的に許せないものがあった。
 つらつらとそんなことを考えていると、北原くんは再びあたしの身体に腕を回してきた。不意をつかれて反応できないでいると、そのまま、右手に持ったスポンジを、あたしの身体に擦りつけてくる。
「ぅわっ…。ちょっと…」
 一瞬遅れで動転しつつ、もう一度振りかえろうとすると、身体に回された腕に力がこもって、あたしの動きを阻止した。仕方なく、そのまま背後の気配を覗う。と、北原くんはあたしの耳元に顔を近づけて、表情が目に浮かぶような、笑いを含んだ声で、言った。
「早沢、大人しくしてろ。」
「う…、わかったよ。」
 なんとなく、北原くんの意図するところはわかってきた。さっきから、シャワー浴びることの何がそんなに楽しいんだろうと思っていたけど、要するに彼が洗おうとしているのは、自分のではなくあたしの身体なのだ。それはそれで微妙にときめくものがないではないけど、一日の最初がそれと言うのも、人としてどうかと言う気がする。
 でも、習慣と言っていいのか、北原くんに命令形で言われると、どうにも強く抵抗しようと言う意志を失ってしまう。仕方なく言われた通りじっとしていると、北原くんは、洗うと言うにはちょっと弱すぎる力で、スポンジをあたしの肌に滑らせた。
「北原くん…ぁん…、くすぐったい…」
 肩口から始めて、スポンジを這わせる位置を次第に下げる。やがて、もうあたしに抵抗する気がないのを見て取ってか、北原くんはウエストに回した左腕を解いて、そこにもボディソープの泡をなすりつけた。
 やがて、身体の前面を一通り擦ってしまうと、北原くんはスポンジを無造作に床に投げ捨てた。
 こんなんで洗ったことになるのかなあ、と訝しく思う。けど、それでおしまいではなかった、と言うかここからが本番だったみたいで、今度は彼は、素手をあたしの身体に這わせ始めた。
「…や、やだ…ねえ…」
「大人しくしろって。」
 思わずまた身をよじるけど、北原くんはにべもない。そのやりとりの間も、彼の両手は、あたしの体組織を軽く掴むような微妙なタッチを加えながら、肌の上を這いまわっている。
「んく…あ、はん…」
 北原くんの手には、普段エッチするときより幾分強い力が込められていたけど、ボディソープですべるおかげで痛くはなかった。むしろ逆に、普段とパターンの違う慣れない刺激のせいか、皮膚から身体の内側に快感が浸透してくることに、意識が抵抗しきれず、あたしは簡単に甘い声を漏らした。
「感じてんのか?」
 言いながら、北原くんはあたしの胸を、両手でむにゅむにゅと搾るように変形させる。浅く摘まれた乳首が、ボディソープのせいで彼の指の間から滑って逃げ、それがまた刺激になって、あたしはぴくんと軽く背筋を反らした。
「やっ…ぁん…、だって……んっ…んふ…」
「折角洗ってやってるのに、エッチだな、お前。」
 あたしのその反応が気に入ったのか、同じように何度も乳首を摘みながら、楽しくて仕方ない、と言うのがありありとわかる声音で、耳元に囁く。それから、左手は胸に残したまま、右手をわき腹に移動させ、今度はその周囲を執拗に撫でまわしてきた。
「だっ…て…そんなふ…に、ぁ…はぁん……」
 抗弁したところで、北原くんを余計に楽しませるだけだと言うのはわかりきっているけど、それでも、自分の反応を言い訳せずにはいられない。
 案の定、北原くんは、くすっ、と満足げな笑いを漏らした。それから、「ちゃんと立ってろよ」と言い置いて、自分は姿勢を屈め、バスルームの床に膝をつく。
「……!」
 いいかげん火照り気味だった頬が、さらに熱さを増すのが、自分でわかった。北原くんが何をしようとしているのか、わかったと言うのもあるけど、おしりに顔を近づけられるのは、どうにも緊張を強いられる。
 あたしの内心を余所に、北原くんはあたしのウエストに顔を近づけ、おしりよりも少し上の、まだ背中と言っていい辺りに無造作に口づけた。それ自体は、別にどうと言うこともない感触だったけれど、唐突だったために、大袈裟に全身で反応してしまう。
 同じ高さへのキスを何度か繰り返しながら、北原くんは、上げ気味にした左手であたしのわき腹やお腹を、もう一方の右手では太腿を、少し力を入れて撫でた。左右の手の役割を入れ換えたり、時には両手で抱え込むように脚に触れたりしながら、どうしてこれほどと思ってしまうくらい確実に、あたしの官能を追い立てる。
「んふ…くふ……、あっ…ふぁ…………ひゃっ…や…」
 背後で、北原くんがさらに身体を屈める気配。成り行きなのか、唇をつける位置をだんだんと下げて来るのに気づいて、また胸の中の緊張が膨れた。
「やだ…はずかし…よ…」
 少しの抵抗もせずに、されるままになるのがどうしても我慢できず、あたしは小声でそう訴えた。でも、本気で拒むことも出来なくて、姿勢だけは必死で維持する。
 北原くんは、一度大きく顔を離し、次いで、あたしのおしりの、右側の中腹辺りに、強めに口づけた。唇で肉を挟むようにして、そのまま何度もキスを繰り返しながら、空いている左側に掌を添え、少しだけ乱暴にこねまわす。その行為そのものは、それほど快感と言うわけではない。でも、他人の視線に最も晒したくない部分の、すぐ近くを愛撫され、弄りまわされていることの緊張感に、あたしの意識は、溶鉱炉の中に放りこまれたみたいに熱く蕩けた。
 少しの間、それを繰り返した後、北原くんは、今まで脚に触れさせていた右手を、女の子の部分に掌を被せるようにして、指先を両脚の隙間に滑りこませてきた。そこが、すでにボディソープとは明らかに違うぬめりを帯び始めていることを確認すると、北原くんは珍しく焦らすようなことはせず、すぐさま中指をあたしの内部に侵入させてきた。同時に、他の指や掌で、その部分全体を揉むように刺激する。
「んっ…あ…んふぁ…くふ…」
 纏わりついたボディソープが、北原くんの手と、触れられている部分との境界をあやふやにしているみたいで、いつもにも増して、身体が蕩けたように感じる。
 もう、まだ朝っぱらだとか、早く食事の用意をしなくちゃとか言う考えは、完全に意識から蒸発していた。ただ、与えられる快感を少しでも感じ損ねないように、身体の表面を這い、内部を掻き回す感触に、神経を集中させる。
 と、あと少しで達せそうなときになって、北原くんは、急にあたしから手を放し、立ちあがった。
「…ん…、………」
 今度は何をされるのかと期待して、じっと目を閉じて待つ。でも、何秒かが過ぎても次の行為は行われず、代わりに、いきなりさっきよりも熱めのお湯が、身体に降ってきた。
「わっ。…あ、あれ?」
 慌てて目を開けると、北原くんがシャワーのノズルをあたしに向けて、お湯をかけていた。
 直前までの快感に、思考がぼやけていることもあって、何がなんだかわけがわからない。疑問の視線を北原くんに投じる。
 やがて、自分とあたしの身体についたボディーソープの泡を全て流してしまうと、彼は、お湯を止め、シャワーを受け具に戻しながら、しれっとした口調で言った。
「おしまい。綺麗になっただろ?」
「えっ…、や、そんな…」
 すげない言葉に、反射的に抗議しかけて、すぐに口篭もる。
 そもそも「身体を洗う」と言うのは単なる体裁で、北原くんがあたしの身体の感触と反応を楽しむための方便にすぎなかったはずなのに、彼のその言葉に、あたしは、自分がそれをいつのまにか完全に忘れて状況に酔っていたことが、猛烈に恥ずかしくなった。
 北原くんはそんなあたしの反応を見逃さなかった。
「まだ洗い足りねえんなら、後は自分でやれよ。待っててやるから。」
「じ…ぶんで、って……」
 その意味するところに思い当たって、全身がかあっと熱くなる。いくらなんでも、と思うけど、北原くんが本気で、あたしがそうすることを望んでいるなら、あたしには拒みようもない。でも、やっぱりいくらなんでも、と思う。
 思考の堂々巡りを何度か繰り返してみても、どうにも決心がつかず、あたしはすがるような気持ちで、もう一度北原くんの表情を覗った。
「……いじわる、しないで…。あたし、北原くんに、して、欲しい……よ」
 口にしながら、聞き入れてくれることは期待できないと自分で思っていたけど、意外にも北原くんは、くすりと笑いを漏らすと、あたしの耳元に顔を寄せて、優しい口調で言った。
「いいよ。じゃあ、続きは上がってからな。」
 もう内心ほとんど観念して、次にしなければならないことを思って全身を緊張させていたので、反動で身体の中身が希薄になったかと思えるような脱力感に襲われる。足元をふらつかせたところを北原くんに受け止められ、そのまま支えられるようにして、脱衣所に出た。

 あたしは、自分で身体を拭くことを許されず、北原くんの手で全身を拭われた。敏感になった身体は、バスタオルの感触にさえ反応しそうになったけれど、声を上げることはどうにか我慢する。
 昨日と同じように、強引にバスルームまで連れてこられてしまったので、あたしは着替えを用意していなかった。もっとも、それも最初から北原くんが狙っていたことなのだろう。どちらにしても、今はもう、着替えたところですぐに脱ぐことになるのはわかりきっていたので、気にはならなかった。
 ところが、北原くんは裸で他人の家をうろつくのは落ちつかないと言って、自分だけちゃっかり用意してあった着替えに、下半身だけ身を包んだ。上半身は、裸のままだ。
 バスルームを出たあと、あたしは北原くんに手を引かれて、自分の部屋ではなく居間に連れて行かれた。
「……って、あの、ここで?」
「嫌か?」
 あたしたちがバスルームにいる間に、居間は適度に涼しくなっていた。朝食の後は、ここでだべるつもりだったので、あらかじめこちらのエアコンを動かしておいたのだ。それはいいのだけれど、いくら自分の家だとは言っても、バスルームか自分の部屋以外で裸になることなど、普段はしない。あたしは、ひどく頼りない気持ちになった。
「ヤじゃ、ないけど…」
 ごにょごにょと口篭もっていると、北原くんはあたしを強引にソファまで引っ張って行った。それから、自分はそこに腰掛け、あたしをその前に立たせる。居間での行為に対する抵抗はいろんな意味で感じたけれど、あたしの方も、北原くんにして欲しくて仕方がなくなっていたので、素直に従った。
「早沢、次は、させるからな。」
 目の前のあたしの腰を、左手で抱え込みながら、北原くんは唐突にそう言った。
 何の意味かわからずきょとんとしていると、今度は、掌を上に向けた右手が、先ほどと同じように股間に滑りこんでくる。
「んっ…んふ…」
 既に濡れてはいるものの、お湯もボディソープもないせいか、バスルームでのときより質感のはっきりとした感触に、思わず喘ぎを漏らす。でも、中に侵入させてくることはせず、北原くんはそのまま動きを止めた。
 あたしが不満に思っていると、北原くんは不意に顔を上げた。その表情に、今の言葉に対する返答をあたしに求めているのだと直感する。
 「次はさせる」と彼は言ったのだ。語調は柔らかかったけれど、有無を言わさない雰囲気を感じた。
 少し考えて、バスルームでの彼の要求を、うやむやのうちにあたしが拒んだ形になったことを言っているのだと、すぐに思い当たる。次に同じ要求をしたときは、拒むなと言うことだ。
 別に明文化してあるわけではないけれど、あたしのことをしたいようにしていい、と言うのが、あたしに対する北原くんの権利だ。さっきはそれを、形としては、あたしのわがままで破ってしまったことになる。
 もちろん、北原くんは、あたしに無理矢理に何かをさせるような人ではないから、そんなことは今までだって何度もあった。でも、だからこそ、彼が求めることなら、出来る限り叶えなければならないと言う意識があたしにはある。増して、一度拒んでしまったのだ。それは、与えられた猶予を消費したと言うことのように思えた。恐らくは北原くんの方も、何もかもを計算しているわけではないにせよ、感覚的にそれをわかっていて、今回は最初から拒否させるつもりで、あの要求をしたのだろう。
 次と言うのが、いつのことかはわからない。本気で、目の前でそう言うことをさせたいわけではなく、ただあたしが彼に服従することを、確かめたいだけかも知れないようにも思える。
 よしんば、本気なのだとしても、恥ずかしいだけで、嫌なわけではないのだ。意識を掌握されることも、普通ならどんな親しい人にも秘密にするようなことを彼にだけ見せることも、「彼の物になる」と言うことの一部なのだし、あたしのすることで、北原くんが満足できるなら、あたしにとってそれが嫌であろうはずがない。必要なのは、決心だけだった。
 最初から答えは決まっているのに、たっぷり二十秒くらい考えてからようやく意を決し、それでも視線を合わせることが出来ず、瞳を瞑って、喉の奥から無理矢理言葉を絞り出すように、あたしは答えた。
「…はい……」
 その一言を言い終えると、息をつく間もなく、北原くんは内部に指を差し入れて来た。中断したとは言え、準備はとっくに整っていたので、あたしのその部分は、それ自身の意志で待ち構えていたみたいに、彼の指を受け入れる。
「んはぅ…んっ…あっ…ふぁ…」
「お前、可愛いな…」
 感触を確かめると、北原くんは差しこむ指を二本に増やし、あたしの身体全体を抱き寄せて、胸の下や、わき腹に唇を這わせた。
 一度、直前まで導かれたこともあって、あたしはまたすぐに達してしまいそうになる。けれども、北原くんはまたもや、それを見計らったように直前で手を放した。瞬間、彼の指先とあたしのその部分との間に、粘性の液体が短く糸を引くのが見える。
「あっ…や……」
 北原くんは、指先に付着したあたしの愛液を、自分の舌で舐め取った。それから、ソファに腰掛けたまま、ズボンのファスナーを下ろして、自分のモノを取り出す。こちらも、もう準備は出来ているようだった。
 昨日のことを思い出して、一瞬どきりとする。でも、あの一度で満足したのか、それとも今は、やっぱりマズいと言う気持ちが上回っているのか、北原くんはポケットから、あらかじめ用意してあったらしいスキンを取り出して、自分で装着した。
「早沢、来いよ。」
 手招きしながら、素っ気なくそう言われて、あたしは逡巡した。もう、少しでも強い刺激があれば、すぐに達してしまいそうだったからだ。一方的に愛撫を受けているときならともかく、互いを感じ合っているときに自分だけが果ててしまうのは、北原くんがなんと言ってくれても、やはり申し訳無い気がした。
「北原くん…、あの、その、前に、一度……」
「いいから。」
 北原くんの方は、こちらの状態など承知の上だったみたいで、あたしが言い淀んでいるのをにべもなく遮る。
 仕方なく、背もたれに両手をついて、北原くんを跨いで、あたしはソファの上に膝立ちになった。脚を大きく開く姿勢になってしまうことに、今更だけど激しい羞恥を覚える。
 そこで一端動きを止めて、上目使いに表情を覗う。どうやら彼は、あたしが自分で、彼のモノを自分の中に導くのを、待つつもりのようだった。
 半ば脱力しかかっている脚に必死に力を込め、膝で這うようにして、位置を合わせる。とは言え、さすがになんの補助もなしで腰を下ろすのは怖いので、屹立した彼のそれに右手を添えた。その感触を掌に受けた瞬間、どう言うわけか、やはり昨日の口でのときと同じように、密度の濃い緊張が、意識を満たす。
 どうして手で触れることを、これほど意識してしまうのかと、頭の隅で考える。
 手は、人が能動的に何かをするときための道具だ。他の人がどうかは知らないけど、あたしには多分、セックスは、男が求めて行い、女が「求められて」「される」ものだと言う感覚がある。だから、あたしにとっては、本来「受け入れる」ものであるはずの男性器に手で触れることが、異質なことに感じるのかも知れない。
 ぺと、と言う感触がして、それの先端が、女の子の部分に触れる。それだけで声を上げそうになるのを、あたしはどうにか我慢した。そのまま、すぐに腰を沈めてしまいたいのを堪え、ゆっくりとした動作で、少しずつ彼のモノをそこに飲み込ませる。
「あ…んく、んっ…ふぁ…」
 過去の経験から言っても、もうそんなに持つとも思えなかったけれど、あたしは出来るだけ我慢するつもりだった。まずは、北原くんのモノを、とにかく自分の中に納めてしまうことだ。
 けれども、もう少しと言うところで集中力が持続しなくなり、脚の力が抜けて、くん、と腰が落ちてしまう。そのほんの僅かな想定外の刺激に、潜んでいた快感が呼び覚まされた。
「はぁ…んっ…だめぇっ………っ……!」
 反射的に全身を緊張させて、皮膚の下にのたうつ快感を身体の奥に閉じ込めようと足掻いたけど、力を入れようにも、肝心の部分はそれ以外の感覚がほとんど消失していて、結局どうすることも出来ない。
「……………っっっ!」
 がくがくと四肢を震わせながら、せめて北原くんには悟られまいと、あたしは顔を伏せ、唇を噛んで、無理矢理声を飲み込んだ。
 そうやってなんとか絶頂をやり過ごした後、ソファの背もたれにかけていた腕から力を抜いて、北原くんの身体に体重を預ける。それから、小刻みな呼吸を繰り返し、息を整えてから、あたしは恐る恐る顔を上げ、北原くんの表情を覗き見た。
「可愛かったよ。」
 視線が合うなりそう言われて、一端は過ぎ去りかけた体の火照りが、またぶり返す。やっぱりと言うか、当たり前かもしれないけど、あたしがイったことは、北原くんにもわかってしまったのだ。
 血液が沸騰したみたいに顔を熱くしていると、北原くんはいとおしげにあたしの頬を撫で、唇を求めた。そういえばキスも、今日はこれが初めてだ。
 何度か舌を絡めてから離れ、また視線を合わせた。
「……ごめん、また、先に、その…」
「いいって。前にも言ったけど、お前、イクとき無茶苦茶可愛いから、見たいんだよ。」
 自分は冷静なままで、あたしが乱れるところを観察したいと言うことだろうか。そうかと思うと、頬が爆ぜそうなくらい熱く感じる。
「それに、今回はもうイク直前だっただろ。まあ、入れただけでイっちまうとは思わなかったけどさ。
 ………心配しなくて、これからちゃんと楽しませて貰うからな。」
 言い終わるなり、返事も待たずに、もう一度あたしの唇を塞いだ。あたしも、求められるままに応え、舌を絡め、唾液を嚥下する。
 そうする間にも、北原くんの手は、あたしの胸や、他の部分への愛撫を再開していた。敏感になっているせいか、全身の何処を触られても、快感がぞくぞくと背筋を疾る。貫かれたままの部分も、内部からさらに蕩け始めていた。
「早沢、動けよ。」
 頃合いと見たのか、北原くんがそう言う。
 ちょっとだけ考えて、あたしは素直に言う通りにすることにした。自分で彼を満足させてあげたかったのだ。
 ソファの背もたれでは、角度が浅くなって身体を支えづらいので、あたしは北原くんの肩に両手をかけた。それから、脚にも力を入れて、まずはゆっくりと腰を上下に動かし始める。
 今しがた達したばかりと言うこともあって、暫くは持ちそうだった。その確信を得てから、少しずつ動きを速める。
「くっ…」
 北原くんの呻きに混じる恍惚の量が、次第に増えていくのが、はっきり感じ取れた。それが嬉しくて、自分も快感を貪りたい衝動を必死に抑え、こちらがもっとも気持ちよく感じる動作をわざと避ける。もちろん、それで全然感じないで済むと言うわけでもないのだけれど。
「北原く…んっ…あっ…き、気持ち、いい…?」
「ああ…、すごい、いいよ…。絡み付く、みてえ…」
 切なげに呼吸を漏らしながら、北原くんは途切れ途切れにあたしの問いに答えた。あたしの状態との比較からすれば、普段よりも速いペースで終わりに向かっていることは明らかだったけれど、それでも、彼の声にはまだ少し余裕が残っている。
 どうしても、自分よりも彼を悦ばせてあげたくて、あたしはまた少し抽送を速め、自分が動くことに集中した。そうすれば、少しでも快感から意識を逸らせるからだ。もっとも、同時に北原くんの様子を覗う余裕も失ってしまうけれど。
 暫くの間、されるままになった後、北原くんは不意に、両手であたしのウエストを掴んだ。
「あっ…んふ……はぁん…」
 行為に没頭しきっていたので、あたしは完全に虚を突かれた。腰に手が添えられたことは、意識の隅で認識していたけど、その意味は考えようともせず、動作を繰り返す。と、あたしが腰を沈めるのに合わせて、北原くんは、僅かに身体の位置をずらした。
「くはぅっ…あ、はぁんっ…んっ…」
 ずっと繰り返していたのと違う刺激を急に与えられ、その部分に広がる快感から、意識を逸らすことが出来ない。思わず動きを止めると、北原くんはここぞとばかりに、ソファの反動を利用するみたいにして、小刻みに下から突き上げてきた。
「あっ、や…だめっ…だめえ…、やぁっ…」
 ようやく我に帰り、自分がしていたことを思い出す。でもそのときには、いつのまにかがっちりと北原くんの腕に抱き締められていて、自由に動くことは出来なかった。
 北原くんは、突き上げる動きを止め、代わって腰をずらすようにして、あたしのお腹の中を掻き回した。
 全身の神経が、押し寄せる快感を勝手に貪るのを、どうすることも出来ない。もうここでやめたところで、惰性でそのまま果てるしかない段階まで来ていることがわかって、あたしは夢中で北原くんにしがみつき、その瞬間を待った。
「あ、…くはうんっ…ふ、ふぁ、は、あ、はああぁぁぁっ……んっ……」
 出来るだけたくさんの快感を搾り取ろうと、力いっぱい身体を北原くんに押し付ける。途中まで意識を逸らそうとしていた反動なのか、いつもより高みまでのぼりつめたような、気がした。
 全身が脱力感に包まれ始める頃になって、今度は北原くんの腕に力がこめられたかと思うと、お腹の中の彼のモノが、びくびくと脈打つのが伝わってくる。
 その感触を味わいながら、あたしは力の入らない身体を、北原くんの胸に投げ出した。

 当たり前だけど、あたしたちはその後もう一度シャワーを浴びねばならない羽目になり、食事は午後までずれ込んだ。
 結局のところ、北原くんを先に果てさせることは出来なかったわけだ。北原くんの方は、最初からあたしにされるままでいる気はなく、ただあたしが自分で動くのを見て、楽しみたかっただけだったらしい。それでも彼の様子から、少なくとも純粋に性的な快感に関しては、今まででいちばん与えてあげられた実感があったので、あたしはそれなりに満足感を得ることが出来た。


 長い時間、一緒にいられるのだから、もっと狂ったように、身体も精神も擦り切れるくらい情事に耽ることになるかと覚悟していたけど、実際にはそうでもなかった。
 北原くんは、二泊したあと一度自宅に戻ったけど、何をどう根回ししたものか、翌日またやってきて、結局一週間の殆どを傍で過ごしてくれた。寄り添っていた時間は長かったけれど、セックスの回数は平均すれば一日一回に満たない。もっとも、最後の二日間、あたしが生理になっていたと言うこともあるのだけれど。
 生物学的な話とかはおいておくとして、セックスって言うのは、短い時間で集中的に深くお互いを感じ合うための手段なのかな、と思う。
 その後も、夏休み中はずっと、会わないでいた三週間を取り戻すみたいに、あたしたちは頻繁にお互いの家を訪れた。
 「自分が北原くんの物だと思うと安心する」と言う言葉に納得してくれたのか、北原くんは以前までよりも、あたしを自分のしたいように扱うようになった。
 それから、昔の話を聞かせて以来、以前にも増して優しくしてくれるようにもなった。昔のことに関しては、それ以降北原くんの方から何かを言ってくれるわけでもなかった。あまり面白い話ではないし、あたしが自分で思うほどには、大したことだとは思っていない可能性だってある。
 それなら、そのほうがいいのかも知れないと思った。北原くんになら、傷に触れられるくらいなんでもないけど、話題にする機会がおおければ、彼に甘えるあまり、話すべきではないことまで、つい話してしまうかも知れない。あたしは、彼に慰めの言葉をかけて欲しいわけではないのだ。

 そんなこんなで、なんだかやたらと長く感じた夏休みは、何処に出かけたりしたわけでもなかったけれど、例年になく幸せな気持ちのまま過ごすことが出来た。
 最終日の夜、あたしは自分のベッドに寝転がりながら、溜息をついた。
 明日からはまた学校なわけで、色々あったことを思うと、ちょっと憂鬱だった。あの時、立ち聞きしていたのがあたしだと、今村さんは気づいたかも知れないし、だとしたら茅薙さんにも知れているだろう。そう言えば、里宮さんにももう一度謝っておかねばならない。
 そんなことをつらつらと考えているうちに、次第に睡魔が襲ってきた。夢見が悪いことはわかっているのに、それでも身体が睡眠を欲することを、少し恨めしく、そして諦めとともに少し可笑しく思いながら、あたしは眠りに落ちた。

続く
第五章・了
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