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●第六章:嫌われたり好かれたり、妬かれたり
 始業式の朝、あたしは、普段よりも幾分早めに学校に向かった。
 終業式の日のことを思うと気が重く、予鈴ぎりぎりに登校することも考えたけど、歯の治療や予防注射みたいなもので、早く煩わしさから解放されたいと言う気持ちもあったのだ。それらと同じように、事実と相対してしまえば意外とどうということもなかった、と言う可能性に期待する気持ちもあったかも知れない。
 教室はまだがらがらだったけれど、今村さんは既に自分の席についていた。
 俯き加減のまま自分の席に向かいながら、視界の隅で今村さんの動向を覗う。焦点の合わない位置なので、細かいことまではわからないけれど、少なくともあたしの姿を見とめて何かのアクションを起こそうと言う気配は見られなかった。
 ほっとしながら椅子に腰掛け、まずは両手で机の中を探った。結局、夏休みの間中、英語の辞書はこの場に放置したままだったのだ。宿題は、父の本棚にあった小さな版型の、けれど収録語数は高校生用のものより遥かに多い辞書を借りて、済ませてあった。
 ほどなく、記憶通りの位置にちゃんとそれがあるのを、右手が探り当てる。そして、安堵とともに机に視線を落とし、「それ」に目を止めた。
 「泥棒猫」
 机のど真ん中に、そう書かれていた。
 一瞬、意味がわからずに、思考が硬直する。まず思ったのは、「また猫呼ばわりか…」だった。それから、その意味や、予想される意図するところが、柔らかい紙に油性マジックを押し付けたように、心に染みを広げる。
 他には落書きのひとつもない机の、ほぼ真ん中と言う大胆な位置取り。その割には、声量に換算すれば「呟く」程度であろうかと言う控えめな文字のサイズ。その気になれば指先でさえ消してしまえる、鉛筆書きと言う手段。そして、筆跡を隠す気配の感じられない、いかにも女の子然とした、跳ねや払いや微妙な湾曲の省略された丸文字。
 その全てが、そこに書かれている言葉が謂れのない中傷でも、憤りにまかせた非難でもなく、ただこれを記した人物の、あたしに対する冷静な認識なのだと言うことを物語っているような気がした。
 なんとも古風な言葉だけど、泥棒猫と言うのがあたしを指すなら、盗んだ物は北原くんしかない。
 立場から言えば、書いたのは茅薙さんだと考えるのが妥当だ。けれどあたしは、今村さんだと思った。確たる根拠があったわけではない。ただ、僅かに言葉を交わした時の彼女の印象から、攻撃的な行動に出ても違和感はない気がしたのだ。
 そう思い当たった瞬間、あたしは反射的に顔を上げて、彼女のいる位置に視線を投じた。
 すぐに自分の失態に気づく。彼女の方も、あたしを見ていた。
 あたしが、書かれた言葉にどう言う反応を示すか試したのだ。視線が合うと、今村さんはゆっくりとした動作で席を立ち、あたしの方に歩みよって来た。
「迷わずあたしの方を見たね。」
 きれいに術中に嵌めたことを誇る風でもなく、静かにそう言う。
「…い、今村さんが、書いたの?」
 動揺を飲み込みながら、あたしは精一杯とぼけてみせた。
 勝気そうな相貌を決定付けている、ややツリ気味の目の片方が、ぴくりと動く。
「へえ、あたしの名前、覚えてるのね。」
 面白くもなさそうなその言葉に、意識を鷲づかみにされたような感触を憶えて、あたしは息を呑んだ。
 あたしが、いくら人の顔と名前を憶えることに積極的でないとは言っても、同じ顔ぶれで既に一学期間を過ごしているのだから、同級生のことくらい、それなりには記憶している。だから、たまたま今村さんの名前を知っていても、客観的に見て特に不自然と言うことはないはずだった。
 でも、あたしが彼女の名前を記憶に留めるようになったのは、実際のところ北原くん絡みの問題がきっかけなのだ。それを意図しての指摘だったとも思えないけれど、だからともかくその言葉は、この場をどうやり過ごそうかと言うあたしの甘い考えに、深く楔を打ち込んだ。
 あたしの反応から、自分の疑念に確信を深めてか、今村さんは、不機嫌そうに短く溜息をついた後、唐突に切り出した。
「誰とつきあおうが北原の自由だし、あたしが文句を言う筋合いでもない。でもあんた、いつだったか、あいつとつきあってるのかって訊いたとき、誤魔化したよね。」
「それは……」
 抗弁しかけるあたしを、苛立ちのこもった視線で制して、今村さんは言葉を続けた。
「唯香は、突然、『他に好きな奴が出来た。』って言われただけだって言うし、相手が誰か訊いても『言えねえ』ばっかりで…。あいつ、筋だけは通す奴だと思ってたのに。失恋の原因も知らされないままで、唯香がどんな気持ちだったか…!」
 大声でこそなかったけれど、その言葉には、指で触れられるのではないかと思えるくらい密度の濃い感情が感じられて、彼女が本気で怒っていることがあたしにも伝わって来た。
 嫌味のひとつも言われるかとは思っていたけれど、こんなにあからさまな怒りを向けられるとは予想していなかった。それだけ、親友のことを大切に思っているのだろう。
 自分達のことを、周囲に対して秘密にすることは、あたしたちの自由であって、第三者からとやかく言われる筋合いではない。それでも、茅薙さんの心情を思えば、今村さんがあたしに対して怒りを向けるのも無理はなかった。まして、北原くんが茅薙さんに何も言わなかったのは、恐らくはあたしがそれを秘密にしたがったからなのだ。その分、あたしには負い目があった。
「……ごめんなさい。」
 逃げ出すわけにも行かず、固い声でただ謝ると、今村さんは怒りを深めたように半眼になった。
「謝って欲しいんじゃない。さっきも言ったけど、誰とつきあおうと北原の勝手だし、あんたが他人の彼氏を寝盗るのも自由よ。
 あたしはただ、あんたのことが気に入らないって言いに来たの。」
「……!」
 寝盗る、と言う表現が、濡れた衣服のように、意識に重く纏わりつく。あたしに心理的な打撃を与えるために、象徴的な意味で使っただけなのだろうけど、それは事実を言い当てている。意図してそうしたわけでなくとも、あたしはまさしく、茅薙さんから北原くんを寝盗ったのだ。しかもそれは、恋心からそうしたわけではなかった。
 「気に入らない」と言う言葉も、意味的には中傷でないにも係わらず、胸に痛かった。
「ついでだから教えといてあげる。あんた付き合い辛いから、嫌ってるコ、多いよ。
 でもあたしがいちばん気に入らないのは、あたしを煙に巻いたことよ。後から思えば、あたしが前に訊いたとき、あんたは確かに否定しなかった。それで、後でバレた時、『嘘はついてない』とでも言うつもりだったの?
 …………………卑怯者。」

 ぴんぽん。
 と、インタフォンから響く能天気なチャイムが来客を告げた。
 突っ伏していた枕から顔を上げ、時計を見る。もう、始業式も終わって学校は引けている時刻だ。
 あの後、あたしはいたたまれなくなって、逃げるように学校を抜け出してしまっていた。
 北原くんを大切にすると決めたのだから、彼とのことで他人に何を言われても我慢するつもりだったけれど、最後の「卑怯者」のひと言には、耐えられなかった。それが、あたしが坂崎歩にかけた最後のひと言と同じであった上、今はそう言われても仕方ないと思ってしまったからだ。
 他人に対しての言い訳にしようなどとは考えていなかったけれど、虚偽を口にしていないことで、後ろめたさを軽減していたのは確かだ。それに気づかされたことも、あたしを打ちのめしていた。北原くんとのことを秘密にしたければ、潔くはっきり嘘を言い、もっと細心の注意を払って彼とつきあうべきだったのだ。
 そしてまた、北原くんに対しても同じように、「嘘ではない」ことを話して聞かせていることを思うと、わかっていたはずなのに、今更のように胸が痛んだ。でも、それを話す勇気は、あたしには、今はない。
 緩慢な動作で起き上がって、あたしは自室を出た。
 訪れたのは、北原くんだろう。学校から家に向かう途中で、登校してくる彼と鉢合わせてしまったのだ。体調が悪いから帰るのだと言い訳をしておいたけれど、もしそれを信じたとしても、彼のことだから見舞いにくらい来るだろうことは予想できた。
 そう考えていたから、受話器を取ることはせず、あたしは何も考えずにドアを開けた。
 そして、そこに立っていた相手を見て、ここがどこで、自分が今何をしていたのか、一瞬わからなくなる。
 少し困ったような、緊張した顔で、でも優しげに微笑んで、空気に染み渡るようなメゾ・ソプラノで「こんにちは」と言ったのは、私服になぜか通学鞄を手にした、同じクラスの里宮さんだった。

 なんのことはない、里宮さんが手にしていた通学鞄は、あたしのものだった。今の今まで、あたしはそれを教室に忘れてきたことに、少しも気づいていなかった。自分で思うより、ずっと平静を失っていたのだろう。
 家が近いとかいう理由で担任に仰せつかって来たのかと訊くと、里宮さんは黙って首を振った。彼女が口にした自宅の住所は、学校を起点にしてまったくの別方向と言うわけではなかったけれど、下校のついでに寄れるような位置関係でもない。もっとも、もしそうであれば、帰宅したあと、私服に着替えてから来訪するようなことはしないだろう。
 では、単に親切でしてくれたことなのだろうかと怪訝に思いながら、礼を言って鞄を受け取る。その軽さに、またもや辞書を置き去りにしてしまったことに気づいた。
 里宮さんは、あたしに鞄を手渡してしまうと、少し申し訳なさそうに目を伏せた。
「早沢さんのこと、噂になってるの…。」
「え……」
「………早沢さんが、四組の茅薙さんの彼氏を盗った、って。」
 素振りは言い辛そうだけど、言葉の内容は簡潔だ。
 今村さんが、腹いせに言いふらしでもしたのだろうか。そう考えかけて、すぐ否定する。そんなことが噂になれば、茅薙さんの方だって傷つくだろう。あの人は、それほど考えなしではないはずだ。
 多分、今朝のやりとりを誰かが聞いていたのだ。今村さんは、周囲を憚って声量を抑えてはいたけど、憤りの激しさのせいか、後の方では普通に喋るのと変わらないくらいの声になっていた。その気になれば、周囲にいた人間が内容を聞き取ることは出来ただろう。
「………そう…」
 意識が憂鬱に染まるのを自覚しながら、小さく溜息をつく。
 「盗った」と言う表現が使われているからには、あたしが悪者と言うことになっているのだろう。実際そうなのだから仕方なくはあるけれど、これでまた学校が居辛い場所になるかと思うと、自分でも意外なほど暗い気持ちになった。良く思われてはいないにせよ、自分に注目する人間がいないと言うだけで、学校は居心地の良い場所だったのだ。
 それにしても、里宮さんは、何故そんなことをわざわざあたしに知らせてくれるのだろうか。そう思って、足元に落としていた視線を再び彼女に戻す。
 視線が合うと、その意味に気づいてか、彼女は気を取りなおしたように笑顔を浮かべた。
「でも、わたしは早沢さんの味方だから。」
 予想外の言葉に、理解がついて行かず、反応を返すことも出来ない。
 以前から確かに、里宮さんは比較的あたしに好意的な人ではあった。
 入学式の日、最初にあたしに声をかけてきたのが彼女だ。式の後、新入生は一度解散して、休み時間を挟んでそれぞれの教室に戻ったのだけれど、席順等は決められておらず、早い者順に思い思いの席に腰掛けた。そのとき、あたしの前の席にいたのが、彼女だった。
 それも縁だと思ったのか、それから数日の間、彼女は何かにつけてあたしに話しかけてきた。あたしが通り一遍の受け答えしかしなかったことで、少しして諦めたようだったけれど、今でもタイミングさえ合えば挨拶の言葉くらいはかけてくれる。
 ただ、それはあたしに対してだけではなく、彼女は誰に対しても、優しくて好意的で人当たりの良い態度で接しているように見えた。
 あたしの「味方」だと言うことは、あたしと対立する立場の人間と対立する立場を取る、と言うことではないだろうか。そこのところに、八面玲瓏な彼女のイメージと、ズレを感じるのだ。
 疑問を口にしたものかどうか迷っていると、玄関の脇の通路から、不意に声がした。
「あれ、里宮か?」
「あら、こんにちは。」
 里宮さんは、そちらに顔を向け、にこりと笑う。姿を表したのは、今度こそ北原くんだった。まずいところを見られたとでも思っているのか、ちょっと怯んだ表情だ。
「早沢、こんなとこで立ち話なんかしてていいのか?」
「…それもそうか。えと、じゃあ、上がって。」
 こんなところを父が見たら、相当喜ぶだろうな、とか思いながら、来客用のスリッパを二足出す。
 里宮さんは少し慌てたように、胸の前で手を振った。
「あ、わたしはいいわ。もう、帰るから。お邪魔しちゃ、悪いしね。」
 引きとめるべきかどうか迷って、やめる。里宮さんが何を考えているのか釈然としない気持ちは残ったけれど、慣れない相手と対峙することが、そろそろ苦痛になって来ていた。
「そう…?……じゃあ、その、わざわざ、どうもありがとう。」
 追い返すみたいで、少し後ろめたかった。それを少しでも清算しようと、改めて謝辞を述べる。その口調のぎこちなさから、あたしの胸中を見て取ってか、里宮さんは、目を細めて優しげな笑顔になった。
「気にしなくていいわ。じゃあ、また明日ね。北原君も、さようなら。」

 あろうことか、北原くんはあたしの言い訳を真に受けていた。先程の「立ち話をしていていいのか」と言う言葉は、来客を玄関先に立たせていることを咎めたのかと思っていたけど、彼としてはあたしの体調を気遣ったつもりだったらしい。
 仮病を使ったことを叱られるかとも思ったけど、北原くんはただ気が抜けたように肩を落とし、「心配して損した」と言っただけだった。
 彼は、まだ噂を耳にしていなかった。
 こういう話が、そもそも男子には伝わり辛いと言う事情もあるのだろうけれど、それより、他のことに話題をさらわれていたと言うのが大きいようだ。と言うのも、クラスに女子の転入生があって、男の子の間ではその話題でもちきりだったらしい。もっとも、或いはポーズなのかも知れないけれど、北原くんはその転入生の「高塚」と言う苗字と、彼女の髪が短いことしか記憶していなかった。
 仕方なく、噂についてはあたしの口から伝えた。
 事情を知っても、彼は特にうろたえたりはせず、ただ浅い苦笑を浮かべて、友人やクラスメイト達にからかわれたり、事実関係に言及されたりしたら鬱陶しい、と言うような意味のことを口にした。冗談めかしてはいたけど、彼のそんな表情は珍しいから、本気でそう思っているのだろう。それでも、その余裕のある態度は、あたしの動揺をかなり払ってくれた。
 彼の方も、少なくとも女子の間では株を落としただろうことは間違いなかったけれど、それに関しても、別に気にしていないようだった。

 翌日は、予鈴ぎりぎりに登校した。
 既に教室には、同じクラスの殆どの生徒が揃っている。彼らは思い思いの相手と雑談を楽しんでいたけど、あたしが教室に姿を見せると、一瞬ざわめきがやや小さくなったような気がした。もっともそれは、そうと知っていなければ気づかない程度のものだったけれど。
 頭を動かさず、意識と視線だけを振って教室内を見まわす。案の定と言うか、こちらをちらちらと伺いながら、雑談を再開する女生徒の姿が確認できた。控えめに、けれども興味深げな視線を投じてくる者もいる。
 覚悟はしていたけど、とても居心地が悪かった。席に座っているだけでも、肌に触れる空気がざらついているような感触がするのだ。
 あたしには今ひとつ理解できないけど、女の子が噂好きなのは知っている。それが恋愛沙汰となれば尚更だ。その上、一方は割と人気のある男の子で、もう一方が、愛想の無さでクラスでもっとも浮いているこのあたしとなれば、やっかみが高じて敵意を持たれるのも、当然の帰結と言えた。そもそも、北原くんに気があっても、彼女持ちと言うことで遠慮していた娘だっているかも知れないのだ。
 だから、もう隠す意味はないとしても、だからと言って北原くんと急に親しげにするのは、いかにもこれ見よがしに思えるので、控えることにしていた。
 もっとも、あたしのその意見に、北原くんは不満そうだった。彼のことだから、可能な限りあたしの傍に陣取って、起こり得る煩わしい事態から庇ってくれるつもりででもいたのだろう。
 そんなことをつらつらと考えていると、期せずして誰かが話しかけてきた。
「早沢さん?」
「……はい?」
 見覚えのない少女だった。ショートカット。ほどよく日に焼けた顔。特に長身と言うわけではないけど、すらりとした四肢が、何かスポーツでもやっているのであろうことを想像させる。
 名札に目をやるまでもない。これが件の転入生、高塚某だ。
「早沢…理音?」
 彼女は、快活そうな造作の顔に似合わぬ無表情で、繰り返しあたしの名を確認した。
「何か?」
 彼女は、その問いには答えず、まじまじとあたしの顔を覗きこんだかと思うと、「ふうん」と何かに納得した素振りを見せた。それから、くるりと背を向け、すぐに立ち去ってしまう。
 大方、噂のことも含めて、同級生達に何か吹き込まれでもしたのだろう。にしても、わざわざ噂の人物を間近に確認しに来たのだとしたら、いい根性をしている。
 そんなこともあって、とてもじゃないけど居たたまれなかったので、昼食は屋上で取ることにした。
 教室を出る直前に、期せずして今村さんと目が合ってしまったけれど、こちらがそうするよりも先に、彼女の方から苦々しげに視線を逸らした。やはり、噂が流れたことは彼女の本意ではなかったのだろう。そう確信を得ると、少し救われた気持ちになった。

 屋上に出ると、外はいい天気だった。空の青さが、小学生の描いた風景画のようだ。
 九月になったばかりだから、好天だと真夏と変わりなく暑かったけれど、それは教室でも大差ない。
 あたしは、出入り口の建物の陰になっているベンチに腰掛け、弁当の包みを解いた。
「……いけない。」
 気がはやっていたのだろう、飲み物の用意を忘れていたことに気づき、思わずひとりごちる。お弁当は毎日自分で作っているけど、飲み物は校内で買う習慣だったのだ。
 この暑さの中で、飲み物もなしに食事をとるのは躊躇われる。面倒になったので、いっそのこと食べるのをやめようかなどと投げやりに考えていると、聞き覚えのある声がした。
「一緒していいかしら?」
「里宮さん…」
「ぼーっとして、どうしたの?」
 里宮さんは、あたしがいいとも駄目だとも言わないうちにさっさと隣に陣取り、次の質問を口にした。
「…いや、飲み物忘れて……」
 半ば茫然としながら、二つ目の質問に答えを返すと、彼女は、我が意を得たりとばかりに嬉しそうに笑って、手にしたステンレス製の魔法瓶を示して見せた。
「麦茶で良ければ、あげるわ。」
 言うが早いか、彼女は既に水筒の蓋を取っていた。そして、あたしが展開について行けないでいる間に、普段は自分で使っているのであろう、シルヴィア&シルベスターの絵がプリントされた小さ目のマグカップに、水筒の中身を注いで差し出す。
「どうぞ。」
「………ありがと。」
 あたしがそれを受け取ると、里宮さんは満足そうに微笑んでから、今度は自分用に、カップの機能を兼ねている水筒の蓋を、同じように麦茶で満たし、傍らに置いた。
 一体何を考えているのだろう。
 里宮さんは、怪訝に思われていることなど微塵も気づかぬ様子で、さっさと自分の昼食の包みを解いた。
 近づいてきたのは彼女の方なのに、話しかけて来る気配もない。仕方なく、あたしも彼女に倣い、暫くの間、並んでただ黙々と弁当を食べた。
 料理の腕には自信を持っていたけど、今は里宮さんのことが気になって、自分の料理の出来不出来さえ判断できない。
 我慢できずに、頭ごと視線を隣に向けると、彼女は真剣に何かを考え込んでいるような表情で、それでもちまちまと上品に食事を続けていた。話しかけて来るときの愛想の良さが、夢だったのではないかと思えてくる。食事中までにこやかにしていろとは言わないけれど、こうまで思いつめたような顔をしなくてもいいのではないか。
 と、あたしの視線に気づいて、里宮さんの方もこちらに顔を向け、また笑顔になった。
「なあに?」
「……わざわざ、あたしを探しに来たの?」
「ええ。」
 何を言おうか考えてもいなかったことに、話しかけられてから気づいて、あたしはとりあえず当たり障りのないことを口にした。そのまま会話を終えてしまっても良かったけれど、昨日の疑問を明らかにしておく機会かも知れないと、思いなおす。
「…里宮さん…あのさ、」
「翠」
 里宮さんが、あたしの言葉を遮る。
 いつのまにか、その表情からはまた笑みが消えていた。口元は、変わらず微笑みの輪郭をなぞっているのに、瞳と眉が、強い向かい風に耐えるように、厳しい。
 ロシアンルーレットをする直前の、映画の主人公みたいだと、意識の隙間で思った。
「……で、いいわ。」
「…すい………?」
「翡翠の翠、翠玉の翠よ。」
「翠…」
 口に出して反芻してから、それが彼女の名前だとようやく理解する。
 翡翠も翠玉も、確か宝石の名前だ。翠玉はエメラルドだから、或いは誕生石から取ったのかも知れない。何にしても、美しい名前だと思った。
 でも何故、たかが名前を告げるだけのことに、そんなに決然とした表情にならねばならないのか。考えてみるけど、答が出るはずもない。
「じゃあ、…翠。」
 少し迷って、結局彼女の言葉に従う。ああまで真剣な顔で言うのだから、余程名前で呼んで欲しいのだろう。そうと認識していないうちに、彼女につられて一度はっきりと口にしてしまったことで、勢いもついていた。
「こんなとこ、友達に見られたらマズいんじゃない?」
 彼女にも、いつも一緒に昼食を取る友人が何人かいたはずだ。なのに、二学期になって最初の昼休みに、別の相手とこうしていると言うのは、グループの中での彼女の立場を危うくするのではないだろうか。その相手があたしだと言うのでは、なおさらだ。
 けれども里宮さん…翠は、あたしの心配を余所に、柔和な微笑をその相貌に浮かべた。
 まるで、たんぽぽの綿毛が笑うようだと思ったけれど、続いて彼女が口にした言葉は、その表情に相応しくない内容だった。
「このくらいでまずいことになるような相手は、友達じゃないわ。」
 自分の友人達はそんな人間じゃないと言いたいのか、それとも、まずいことになったらそれはそれで構わない程度の相手だと言う意味なのか。
 彼女のイメージからは著しく外れるけれど、後者だと直感的に思う。明確な根拠はなかった。ただ、先程の表情の意味は、その辺にあるのかも知れない気もしたし、平均的な他人を、あたしがあまり信用していないということも先入観になっているのだろう。
「意外とシニカルだね。けど、なんで急にあたしを気にかけるのかわかんないな。」
 あたしの問いに、翠は少し俯いて考え込んだ後、諦めたように軽く溜息をついた。
「……わたしね、小学校までだけれど、白倉に通っていたの。理音ちゃんのことも覚えてるわ。」
 息を呑む。まさか、ここで白倉学園の名前が出てくるとは思わない。
 動揺を必死に抑え、散らかった部屋を引っ掻き回すようにして、当時の記憶を探る。
「………ごめん、あたしは覚えてない。」
 今更、当時の同級生達を恨んでいるわけでもないけれど、だからと言って顔を合わせたいとも思わない。心当たりのないことに半分以上はほっとしながら、やっとのことで答える。
 翠は、安堵とも落胆とも取れる読み取り辛い表情で、大きく息をついた。
「でしょうね。」
 見た目にも、肩から力が抜けたことがわかる。
 「里宮」と言うのは、字面にも音にも特殊なところはないけど、それでいてあまり聞かない、印象に深い苗字だ。もし当時同じクラスにいたのなら、聞けば思い起こせる程度には記憶に残るだろう。
 恐らくは、クラスは別々で、翠の方が一方的にあたしのことを知っていたのだろうと納得する。あたしが憶えていないことを、最初から予想していたような受け答えから考えても、それは間違いない。
「入学式の日、名簿を見てすぐにわかったわ。わたしもそうだけど、理音ちゃん、名前珍しいから。」
 ふとした違和感を憶えて、いつのまにか名前で呼ばれていることに気づく。動揺に気を取られたまま、看過してしまったのだ。別に強引な人ではないのに、先ほどからどうも彼女のペースに巻き込まれているような気がする。
「それで、その…仲良く、なりたかったけど、話しかけるの迷惑みたいだったから、諦めた。でも、ずっと気になっていたの。」
「同窓のよしみってこと?」
「……それが、ひとつかな。それとね…終業式の日のこと、覚えてる?」
「あ、あの時はごめん。ちょっと、その…」
 昨日の朝までは、あの時ぶつかったことを改めて謝っておかねばと思っていたのに、色々ごたついていて今まで忘れていた。慌てて謝ると、翠は「気にしなくていい」と言う風に、黙って首を横に振った。そして、少し悲しげな表情になる。
「理音ちゃんが行っちゃった後、今村さんに、誰がいたかって訊かれたの。それで、『早沢さんがいたけど、なんだか慌てて走って行っちゃった』って答えたら、彼女、怒ったような顔して『やっぱり』って。
 その時は何のことかわからなかったけど…、噂、聞いて、ああ、このことだったんだな、って思った。あの場に茅薙さんもいたし、彼女が失恋したこと、ちょっと前に噂になってたから。」
 なるほど、と思った。それで今村さんはあたしに対する疑念を深めて、確かめるために昨日のような手段に出たわけだ。
「だから、ごめんなさい。噂になったの、わたしのせいかも知れない。」
「ああ…、なんだ。」
 そのことに責任を感じて、あたしに肩入れをする気になったのかと、ようやく合点が行った気がした。
「知らなかったんだし、気にしなくていいよ。噂だって、ほんとのことだしね。」
 そういうことなら、やはり思い留まらせねばと思い、あたしは自嘲を匂わせる口調でそう言った。
 ところが翠は、またも黙ったまま首を横に振り、一転して自信ありげな笑みを浮かべる。
「噂のこと、わたしは信じていないの。」
「え、いや、でも…」
 本人が事実だと認めているのに、何を言い出すのだと思いながら抗弁しかけると、翠は、口元に笑みを浮かべたまま、今度もまた首を横に振る。クセなのかも知れないけれど、それはなんとなく、口に出すよりも、深い確信に基づく否定のような印象を受けた。
「あの時ね、様子、変だったから、話しかけるまでに理音ちゃんのこと、少し見ていたの。
 廊下から教室の中を見て、少しだけ困ったみたいに考え込んで、それから驚いた顔になって、最後は…、泣きそうな顔、してたね。どうしてだろう、って、すっと考えていたの。
 それで、因果関係は噂の通りだとしても、『盗った』って言うのはきっとニュアンスが違うんだって、そう思った。
 北原くんが茅薙さんとつきあってるの、知らなかったんでしょう?北原くん、人気あったし、四組とは合同の授業が多いから、結構みんな知ってたけど、理音ちゃん、そう言う噂話に疎そうだもの。」
「あ………」
 絶句する。かなりの部分は推測のはずなのに、その自信ありげな態度に違わず、彼女の洞察はほぼ正確に事実を捉えていた。
 そうなのだ。あたしは別に、茅薙さんから奪うつもりで、北原くんにちょっかいをかけたわけではない。茅薙さんの存在を知っていたなら、あの日、彼の家に上がることさえ遠慮しただろう。
 ただ、茅薙さんにしてみればそんなことは関係がないのだから、それは結局言い訳にしかならない気がして、自分でもそうとは考えないようにしていた。
 それにあたしは、恋心から北原くんに抱かれたのではないのだ。現在はともかくあのときは、彼に身体を許すことは、約束の交換条件でしかなかった。
 そういうことを思えば、恨まれても、噂で悪者にされても仕方がない。その境遇に身を置くことが少しでも贖罪になるなら、甘んじて受け入れようと思っていた。
 だからやはり、翠の好意は拒絶するべきだったと思うのだ。そうしなければ、彼女まで周囲から孤立させてしまうかも知れない。
 でも結局、あたしは何も言うことが出来なかった。
 翠が、好き嫌いや利害でなく、事実を認識した上での、第三者的な公平な判断から、あたしに好意的であることは、彼女の言動から見て間違いない。そのことに、自分が少しだけ許されたような気がして、口を開けば、我慢しきれずに泣いてしまいそうだったのだ。
 翠は、少し身を屈めて、あたしの顔を覗き込んだ。表情で、あたしが涙を堪えているのを見て取ってか、いたわってくれるように、優しげに目を細める。
 満足そうに見えたのは、錯覚ではないだろう。それは、今のあたしの反応が、彼女の洞察が正解であることと、それによってあたしが、いくらかでも救われたことを証明しているからだ。
 翠は、その細い手首に巻いた腕時計の、小さな文字盤を指で示して、言った。
「まだ、時間あるけど……、なんだったら、五時間目、サボっちゃおうか?」
 泣くくらいの時間はある。足りなくなっても、つきあってあげる。真面目そうな彼女に似つかわしくないその言葉の、内側に含まれる意味を悟った途端、急激に視界が滲んだ。

 こんな風にあからさまな好意を向けられたことは、ここ数年なかったわけで、それがこれほど心地よいものだとは、思ってもみなかった。
 不意に見せる場違いに厳しい表情など、よくわからない部分もあるけれど、翠にはどことなく、信じて良いと思わせる雰囲気がある。
 身長も肩幅も、あたしに比べて大柄ではあるにせよ、同世代の少女としては平均の域を出ない体躯だし、肩の上で少し内側にカールさせた、細くてふわふわの髪や、ふっくらとした頬、黒目がちで大きな瞳など、見た目はどちらかと言えば「可愛い」部類だと言える。なのに、全体としての彼女は、大人びた印象の人だった。
 色気があると言う意味ではない。女性としてではなく、人間としての成熟を感じると言えばわかり易いだろうか。落ちついた物腰と、余裕のある笑顔がそう思わせるのだろう。育ちは良さそうだけど、世間知らずと言う風でもない。
 昨日、鞄を届けてくれたことと、噂の流布を知らせてくれたこと。今日、わざわざ屋上まであたしを探しに来てくれたことと、あたりまえのように麦茶をわけてくれたこと。それから、今までの彼女の話。どれを思い起こしてみても、嫌な印象はない。悪意も感じられない。言い辛いことも言ってくれた、その率直な正直さも、好ましいと思えた。
 以前なら歯牙にもかけなかっただろうけれど、今のあたしは、人恋しさを自覚している。進んで誰かと親交を持とうとは思わないけれど、「仲良くなりたい」と言われて嬉しかったのも事実だ。
 それでもなお、翠を信頼して良いものかどうか、迷わずにいられない。
 今更、彼女の好意を疑うのではない。今後、あたしと翠が恒常的に仲良くなったとして、結果的に彼女と友人達との折り合いが悪くなったりすれば、その負担を負うのは彼女自身だ。彼女はそれも承知していたようだけれど、負担が大きければ彼女はあたしに対して好意を持ちつづける余裕がなくなるかも知れず、もともと余裕のないあたしには、なんらかの手段で彼女の負担を肩代わりすることは、出来ないかも知れないのだ。
 他人を信じられないと言うのは、つまりはそう言うことで、人が嫌いなわけではないのだと、今のあたしにはわかっている。
 暫く考えて、答を出すことを諦めた。今日の放課後は、北原くんの家に寄ることになっていたから、そのときに、彼に相談してみようと思ったのだ。

「って言うわけなんだ。………いいのかな、これで。」
 いつものように、壁を背に、ベッドに座っている北原くんに寄り添いながら、あたしは翠とのやりとりと、自分が彼女に好感を持ったことを、子細に語って聞かせた。
 けれども、彼の反応は思いの外素っ気無かった。
「早沢が、いいと思うようにすればいいんじゃねーか?」
 言葉がぶっきらぼうなのはいつものことだったけれど、口調や表情が不機嫌なように思えて、不安になる。それに、言葉の内容はもっともだけど、北原くんならもっと何か、指針になるようなことを言ってくれると思っていたのだ。
「……北原くん、何か、怒ってる?」
「怒ってねえよ。」
 口とは裏腹に、北原くんは明らかに怒っていた。彼の、これほど不機嫌な態度は今まで見たことがない。
 つい先程までは、普段通りの彼だったのだ。機嫌を損ねた原因は、あたしが相談をしたことだとしか考えられない。
 あたしが、彼を頼りすぎていたことが、腹立たしかったのだろうか。
 そうかも知れない、と思う。頼られることも嬉しいと彼は言ったけれど、何事にも限度と言うものがある。翠のことは、彼には何の関係もないのだ。
 そんなわけはないのに、いつのまにか、彼にならいくら甘えてもいいと思いこんでいたことに気づいて、あたしは急激に自己嫌悪に陥った。
 彼から身体を離し、ベッドを降りる。
「……ごめんなさい。考えなしだった。
 今日は、帰るね。北原くんの言う通り、自分で考えてみる。」
 下手に機嫌を取っても、北原くんは余計に怒るだけだろう。しんどいけれど、今は彼の言う通りにするしかない。
 翠のことは、空気よりも幾分密度の濃い感触を保ったまま、あたしの胸の中にわだかまっている。北原くんに相談すれば、それをいくらかでも身体から吐き出せると思っていた。それに今日は、彼に抱いてもらえることにも期待していた。
 そのどちらも果たされないまま、ここを去ること思うと、体の中が物凄く空虚に感じられた。
 ドアに歩みより、ノブに手を掛けようとすると、北原くんがベッドの上から伸び上がるような姿勢になって、あたしのその手首を掴んだ。
「……なに?」
 不機嫌な表情であることに変わりはなかったけど、先程までと違い、そこからは苦渋らしきものが読み取れる気がした。何がそう思わせるのだろうと考えて、彼が、気まずげにあたしから視線を逸らしているからだと、すぐに思い当たる。
 逃げられることを怖れているみたいに、痛いくらいの力であたしの手首を掴んだまま、彼はベッドを降りて歩み寄って来た。そして、まず空いている左腕をあたしの身体に回し、ついで右腕もそれに倣う。ようやく解放された手首は、少し赤くなっていた。
「悪い。ほんとに、怒ったんじゃねえんだよ。」
「…え、でも……」
 耳元で囁かれた声音には、まだ無理矢理抑えつけたような憤りが薫っている。
「オレは、里宮のことは良く知らねえけど、あいつがいいって言うなら、付き合ってみてもいいと思う。……友達は、いた方がいいよ。」
 あたしだって、確かにそう思う。それに、友達のひとりもいれば、北原くんにかける負担を、少しは減らすことが出来るだろうとも思った。今のあたしは、どう考えても彼に依存しすぎている。
 けれど。
「…なんで、そんなに悔しそうに、言うの?」
「悔しいからだ。」
「………なにが?」
 わけがわからない。
「里宮、いい奴なんだろ?」
「え…、うん、多分、なんとなく、だけど…。」
 脈絡が掴めず、半ば茫然としながら答えると、北原くんは小さく溜息をついた。
「だからだよ。里宮に、嫉妬してる。」
 耳を疑った。北原くんの口から、「嫉妬」などと言う陰湿なイメージの言葉を聞くとは思わなかったのだ。まして翠は女の子で、北原くんにとって、あたしを挟んでの嫉妬の対象になるとは思えない。
 あたしはまだ、彼が何か勘違いをしているのかと思っていた。
「いや、だって、翠は…」
「わかってるよ。けど、お前がそんな風に心、許すの…オレだけだと思ってた、から。」
「あっ…………」
 らしくない途切れ途切れの、呻くような苦しげな口調に、北原くんが何を考えているのかようやく理解し、あたしは絶句した。
「ごめん。……ごめん。………………ごめん、やっぱりあたし、考えなしだ。」
 あたしが北原くんの物になる、と言うのは、結局はあたしと彼との間の約束でしかない。意識的にはどうあれ、証書が存在するわけではないし、あたしの身体の何処かに、彼の名前が書きこんであるわけでもない。
 だから彼は、そう言う目に見える物の代わりに、他の誰とも、言葉を交わすことさえ殆どしないあたしが、唯一なにもかもを許す相手が自分であると言う、わかりやすい状況と立場に拘りたいのだ。
 けれどまた、その考え方を自己嫌悪していることも、彼の口調からは伺えた。そうやってあたしを縛ることが、常識的に考えればあたしの為にならないことは明らかだからだ。恐らくは衝動的に、そう言う思いをあたしに告げてしまったことさえ、自分の身勝手に思えるのだろう。
 彼の心中を察することの出来なかった自分が、ひどく無神経に感じられた。
 はっきりと恋人同士であるのなら、彼もこんなことで不安にならずに済むのだろう。けれど、未だにあたしは、二人を繋ぐ感情が恋愛と呼べるものなのかどうか、わからないでいる。そうであって欲しいと彼が望むのなら、それを受け入れようと言う気持ちではいるけれど、少なくともあたし自身には、確かにそうであると言う感触はなかった。
 だからと言って、あたしにとって彼が、恋愛の対象であるよりも低位の存在と言うわけではないのだけれど、彼にしてみれば、絆の太さが具体的に見えないから、代わりに、細くても沢山の糸で、あたしを絡めとっておきたいのだ。
 これ以上なんと言ったものか考えているうちに、彼はあたしの身体に回した腕を放し、再びベッドに腰掛けると、気まずさを振り払うようにわざとらしく笑った。
「悪い。オレの方がどうかしてた。気にすんな。」
 作り笑顔であることはわかったけれど、それが出来る分だけでも機嫌が戻ったことに、少し安堵する。
 今日は、これで帰るべきかも知れないと思った。今はまだ気まずいけれど、明日になれば、互いに普通に接することが出来るだろう。
 でもそれは、今のやりとりをなかったことにすることだ。忘れたふりをしても、本当に忘れてしまうわけではない。本当に彼を大切に思うのなら、今、彼の不安を払拭しておかねばならない。そう思えた。
 具体的な方策があるわけではなかったけれど、ともかくベッドに歩み寄り、再び北原くんの左隣に腰掛ける。
「早沢?」
 北原くんは、怪訝そうな顔をした。今日の逢瀬はお終いだと、抱擁を解いた時点で互いに了解したつもりでいたのだろう。
「もう少し、そばにいさせて。」
「……いいよ。」
 あたしの、深刻な声音に怯んだように、北原くんは少し間を置いてから答え、そのまま黙り込む。
 電話越しのそれのような、居心地の悪い沈黙の後、あたしは意を決して、口を開いた。
「…北原くんが、本気で嫌なら、翠と付き合うの、やめる。」
 そう言う物事の決定の仕方が、あまり健全でないことは自分でもわかっていたけど、あたしは本気でそう考えていた。
「早沢、あのな、オレは…」
 北原くんは、慌てて顔をこちらに向け、咎めるような声を上げた。その反応が予想通りだったことに、心底安堵する。彼が本当に、翠に嫉妬を抱いたことを自己嫌悪していただけだと、それで確信出来た。そしてまた、そう言うことを口に出さずにいられない程、あたしに対して独占欲を抱いてくれたのだと思うと、胸の中が痺れるように熱くなる。
 言うことを具体的に考えていなかったのだろう、困ったような顔で口篭もる彼を、あたしは視線で制し、言葉を続けた。
「あのね、あたしね、もし、人が、犬とか猫みたいに、人を自分の物に出来る法律とかがあったら、ほんとに北原くんの物に、されてもいい。…ほんとだよ。
 だから…、北原くんの言うこと、なんでも聞く。北原くんのこと、いちばん大事だから、北原くんの嫌なことは、しない。」
 偽らざる心情だったはずの自分のセリフは、実際に口に出してみると、慌てて書いた作文の宿題のように、どうしようもなく陳腐なものに思えた。それが恥ずかしく、さらっと言ってしまうつもりだったものが、一世一代の告白をしているような口調と表情になってしまう。頬が、温湿布でも施したように、かあっと熱くなった。
 「なんでも言うことを聞く」と言うのは、既に二人の間の約束のはずだったけれど、言わずにはいられなかった。実際には、あたしはもう何度か、彼の「言うこと」を聞かなかったことがある。改めて宣言しておかなければ、約束の意味は薄れたままになってしまうような気がしたのだ。
 恥ずかしさにしどろもどろになりながら、残りを口にする。
「あー…その、だからね、ここ、肝心なんだけど…、北原くんが許してくれるなら、翠と付き合ってみても、いいって、思うの。」
 欺瞞に過ぎないし、北原くんだってそのくらいはわかるだろうけど、「まず許しを得る」形を取ることが、あたしが彼を他の何より大切に思っていることの、意思表示にはなると思ったのだ。もちろん、彼が本当に翠と付き合うなと言えば、それに従う気ではいたけれど。
 北原くんは、まじまじとあたしの瞳を覗きこんだあと、不意に苦笑を浮かべ、肩の力を抜くと、短く「いいよ。」と言った。その表情からは、先程までの気まずさが、かなり軽減されていた。あたしの言わんとすることを、どうやら彼はきちんと読みとってくれたようだった。
 ようやく緊張を解いて、北原くんに体重を預けると、彼は少し体勢をずらして、全身で包み込むように、背中からあたしを抱き締めてくれた。
 何も言わず、あたしはただ、抱擁を感じ取ることに意識を注いだ。
 いつものことだけれど、衣服越しに浸透してくる彼の存在感が、物凄く心地よかった。このままでいれば、いずれ完全に浸蝕されて、彼の中に溶け込んでしまえるかも知れないと言う気さえしてくる。
 もちろん、それは幻想に過ぎないわけで、暫くして、身体に回された腕から、不意に力が抜けた。結構な力を込めて抱き締めてくれていたから、いいかげん疲れたのだろう。代わりと言うのでもないだろうけど、北原くんはあたしに少し体重をかけながら、半分掠れた声で囁いた。
「泊まりに行ったときにした…約束、憶えてるか?」 
 直截的でない言い方だったけれど、すぐに思い当たる。彼に会う度に、いつまた同じ要求をされるかと気になっていたし、今だって、もしかしたら言われるかも知れないと、思ってはいたのだ。
 約束の内容は、「次に同じ要求をされた時、決して拒まないこと」。そしてその要求と言うのは、彼の見ている前で「自慰をして見せる」ことだ。
「……うん」
 身体を強張らせながら、小さく頷く。
 それが、彼の要求を承諾したのも同然だと気づいてはいたけれど、もう一度拒否する言い訳は、思いつかなかった。

 原則的に、あたしが北原くんの家を訪れるのは、自由になる時間と空間の関係上、平日で、なおかつ父が家で夕食を取る予定のない日と決まっていた。自分ひとりなら、食事など簡単に済ませても構わないし、北原くんの両親は共働きと言うことなので、大体八時近くまでは、誰にも邪魔をされずに二人でいることが出来る。
 今はまだ五時を回ったばかり。時計に目をやれば、秒針の動くペースが一秒間に一秒分であることはちゃんと認識できるのに、いつもなら短く感じる残り二時間半が、今は永遠の果てまで続いているように思えた。
 緊張に手間取りながら、ようやく服を脱ぎ、ベッドの上に戻る。北原くんは、ベッドの頭側に接する壁にもたれ、部屋着代わりのトレーニング用の短パンから突き出た脚を、前方に投げ出して、待っていた。
 目を合わせる勇気はなく、かと言ってあからさまに顔を背けるわけにもいかないので、顔を伏せ、上目使いで北原くんの口の辺りに視線を投じた。その真一文字に唇を閉じる様子から、彼も緊張しているのだとわかり、少しだけ安心する。もっとも、それで恥ずかしさが軽減されるわけではないけれど。
 嫌なのではない。自分の、彼の所有物としての純度が高まるのなら、どんな秘密でも彼に捧げてしまいたいと思う。胸の奥のほうには、見て欲しいと言う気持ちさえあることも、自覚はしている。ただ、理性がそれを認めたがらないのだ。
 自慰は、他の様々な、互いを感じ合うための性行為と違って、独りで、自分だけの為にするものだ。だから、「相手に見せるため」に、わざわざそれをすると言うのは、性的な行為と、その結果得られる快楽を、「遊び」に貶めることのように思えた。
 もちろん、これまでの行為にも、遊びと言う側面があることはわかっているし、闇雲に儀式的な神聖さを求めているわけでもない。それでも、あたしが北原くんと肌を重ねるいちばんの理由は、「せずにいられないから」だ。
 最初の時は、居心地の良さを分け与えてもらう為の対価。それ以降は、彼に抱かれること自体の(肉体的な快楽とは別の)心地よさ。意味は変わっていても、あたしにとって彼との性行為は、魂が呼吸をするようなものなのだと思う。
 だから、そう言った切実さのない、「遊び」の要素が大きい行為の場合、羞恥心が勝ってしまうのだ。自分を納得させる理由が、足りなかった。今までは。
 でも今なら、と思う。
 北原くんは、あたしにとっての自分の価値が、翠の出現によって少しでも揺らぐことを恐れている。そして、彼があたしとの関係に危機感を抱くのは、今のあたしが、もっとも忌避すべきことだった。だから今は、あたしは変わらず彼の物なのだと、出来る限りの手段で彼に訴えなくてはならない。そう、思えた。
 それに、つい先程「なんでも言うことを聞く」と宣言をしたばかりだ。そのときの切実な気持ちが、時間とともに薄れて行くことは避けられなくても、今はまだ胸の中にちゃんと残してある。
「…え…っと……」
 とは言え、そう簡単に踏ん切りのつくものでもない。唐突に始めてしまう勇気はなかったし、だからと言って「始める」と宣言をして始めるのも、バカみたいだ。
 逡巡していると、不意に北原くんが手招きをした。
「早沢、こっち、こいよ。」
「…うん」
 膝で這うようにして、北原くんに近づく。
 どんな風にしろと、指示をしてくれることを、あたしは期待した。「させられている」のだと言う意識になれれば、少しは気が楽だ。
 我ながら下世話だけど、「ベッドの前に立たされて、彼の目の前に大切な部分を晒しながら」と言うシーンを、あたしは想像した。別に、そう言う風にさせられたいと言うのではない。日頃から彼は、その部分を見ながら愛撫をしたり、弄ったりするのが好きだった。見るのが好きと言うよりは、あたしの羞恥心を煽る為だろう。あたしが、羞恥によって、より乱れてしまうことは、完全に露呈している。てっきり、今回もそのセンだろうと思っていた。
 けれども、北原くんの指示は、予想とは違っていた。
 北原くんは、あたしを促して、自分の膝の上に腰掛けさせた。ちょうど、彼を椅子にした形だ。あたしが好むこともあって、向かい合って彼を跨ぐ体位でセックスをすることは多かったけれど、この向きで彼の上に座るのは初めてだった。
 北原くんは、あたしの膝裏を掴んで、大きく脚を開かせた。
「きゃ…」
 急だったので、小さく悲鳴を上げてしまう。北原くんがいるのは背中側だから、誰が見ているわけでもないとは言え、女の子の部分が、無防備に外気に晒される感触は、何度経験しても緊張を強いられた。
 それでも、ようやく状況が動き出したことにほっとして、されるままに任せることにする。次に彼は、やや立てた膝であたしを開脚した状態に維持し、両手をあたしのお腹に回して後ろから抱き締めた。
「早沢、いいよ。」
「え、でも……見えないんじゃ、ない?」
 北原くんは、あたしの両脚を自分の膝で割らせるために、姿勢をかなり低くしている。いくら三十センチの身長差があるとは言え、これでは彼は、視界を大幅に制限されるはずだ。
「いいんだよ。声、聞かせろよ。」
 恥ずかしがるあたしに気を使って、と言うのではない。北原くんの声は、緊張もしているけど、そこはかとなく楽しそうだ。彼は、あたしが本質的には嫌がってはいないことをわかっているだろうし、そうであれば、むしろあたしが恥ずかしがる姿を見たがるはずだ。
 少し考えて、なんとなく理解できる気がした。彼は、あたしが「自分の腕の中で自慰に耽る」のを、楽しみたいのだろう。
 見られはしないわけだけれど、それはそれで羞恥心を煽るものがあった。なんといっても、これ以上ないくらい密着し、事実上拘束されているようなものなのに、何もしてもらえず、自分で自分を慰めねばならないのだ。
 背中にあたる北原くんの息が、殊更に熱く感じる。あたしは深呼吸をしてから、開かされた両脚の間に、おずおずと右手を伸ばした。
「ふぁ、あっ………く、はぅん…」
 中指の腹で裂け目を軽くなぞった途端、過去の経験から予想していたよりずっと大きな快感が、皮膚の上を疾った。予想外の刺激に、声を抑えることが出来ない。緊張と期待で、感覚が過敏になっているのだ。
「…ん、んく…んんっ……」
 いきなりあられもない声を聞かせてしまったことが恥ずかしくて、必死に喘ぎを飲み込む。そう言う状態なのに、手を休めることは思いつかなかった。急激に気持ちが押し上げられたことで、その選択肢はいつのまにか意識から削除されていた。
「んっ…んふ、あっ…ぁあっ…」
 何度も繰り返すうちに、次第に動作が雑になり、その為、敏感な部分に想定外の強い刺激を何度も与えてしまう。あたしは簡単に自制を失った。
 あたしのその部分は、すぐにぬかるんだ状態になった。本来ならこの後に訪れるはずのモノを待ちうけて、入り口が綻んでいるのが感触でわかる。けれど今は、いくら待ってもその時が来ないであろうと言うことも、あたしはしっかりと意識に残していた。
 けれど、北原くんにすっかり開発されてしまった身体は、外側からの刺激だけで我慢することを許してはくれない。あたしは、右手の中指だけを内側に折り、少しだけ緊張しながら、ゆっくりと自分の中に沈めた。
 挿入自体はスムーズだったけれど、その内壁は絡み付くようにしてあたしの指を圧迫して来た。もっとずっと太い北原くんのモノを、今まで幾度となく飲み込んでいるはずなのにと、頭の隅で不思議に思う。
「ふぁ…、ん、あ、ぁんっ…くふ、きたはら…くぅんっ…」
 セックスの出来の悪いイミテーションのような、その感触のもどかしさを補完するように、あたしは自分が北原くんに貫かれているところを想像した。自分の妄想を彼に気取らせるようなものだから、名前を呼ぶことは躊躇したつもりだったけれど、理性と身体は既に連動を失っていて、意識の表層に浮かんだ言葉が、そのまま止め処もなく漏れ出てしまう。
 中指は内部に埋めたまま、残りの指と掌でその付近一帯をこね回すようにして、快感を貪る。先程まで北原くんの腕を掴んでいたはずの左手も、いつのまにか自分の胸を愛撫していた。
「きたはら、く…ぁあ、ひぁ、もっ…と、くふ、ああんっ…」
 手の動きに合わせて、腰を振りたい欲求に駆られたけれど、足が宙に浮いてしまっている不自由な姿勢では、それもままならない。
「んっ、くふぅん…はぅ、ふぁ…あっ…
 ………………………………うひゃあっ!?」
 それでも、どうにか絶頂を迎えられそうな気配がしてきた頃、あたしは唐突に身体のバランスを崩し、前につんのめった。
 どちらかと言えば、背中側に体重を傾けていたし、しっかりと抱えられていて、転ぼうと思っても叶わないような状態だったはずだ。なのに、今あたしは、北原くんの脚を抱え込むように、四つんばいに伏せた姿勢になっていた。バランスを崩した時、反射的に自分の中から抜いていたのだろう、身体を支えるのに右手をついてしまったため、付着していた体液が、シーツに染みを作る。
 あたしは、首だけを捻って後ろを見た。北原くんは、先程の半分寝たような姿勢から、上半身をやや起きあがらせている。要するに、彼に突き飛ばされたのだろうか。
「えと…、何が、どう…」
 わけがわからず、意味の繋がらない疑問の呻きを口にする。ただ見ているのが我慢できなくなったのかとも思ったけれど、彼の表情は、興奮を無理矢理抑えこんでいるようではあるものの、今すぐ衝動に任せて覆い被さってくる気配でもない。
 訝しんでいると、北原くんは、左脚をもぞもぞと動かして、あたしの体の下からどかし、ベッドの脇に降ろした。そして、残った右脚を、あたしの両脚の間に抱え込ませるように、やや立て膝にする。
「ふぁっ……」
 敏感な部分に、北原くんの太腿が押し付けられ、あたしは思わず甘い声を漏らした。上りつめる途中で放置されていたこともあって、そのささやかな快感は、僅かに戻りつつあった自制心を、容易く揮発させた。
 窮屈で不安定な姿勢だったけれど、既に気にしている余裕はなかった。萎えそうになる脚に、なんとか力を込めて膝立ちになる。バランスを保つためには位置が低すぎたけれど、他につかまる場所もないので、彼の膝に両手をついた。
 そしてあたしは、一瞬だけ躊躇してから、彼の太腿が作る斜面に自分の中心を密着させ、ゆっくりとその表面を滑らせた。
「く…んふぁ、ふぁっ…はぁん……」
 先程までの手淫で、潤滑油は既に十分に分泌されている。その動きは、まるで熱したフライパンの上を滑るバターみたいに滑らかで、自分が本当に、その部分を中心に溶けていくような気がした。我知らず、腰の動きが加速する。
 腰を前に迫り出させるようにして、なるべく強く女の子の部分を押し付ける。けれど、指による繊細な行為にくらべ、広い面を使ってのその大雑把な刺激は、いかにも物足りなかった。「同じ力を加えた場合、単位面積辺りにかかる圧力は…」などと言う、妙に冷静で具体的で的外れな思考が、意識の端っこを掠めて消える。
 内側が空虚な状態のままであることが、何よりもどかしかった。もう一度指を使いたかったけれど、腰を振る動作を中断することが出来ない。もどかしさが、あたしをその行為に余計に耽溺させていた。
「うぁ…ふぁあっ…、くふぅんっ…」
 とにかく、一度終ってしまおう。その後は、北原くんがなんとかしてくれる。あたしはそれだけを期待して、夢中で腰をくねらせた。
 この淫靡としか形容しようのない動作を、背後から見られているのだと思うと、恥ずかしさに涙が溢れた。
 せめて今は、何も考えられないくらい行為に没入してしまおう試みる。けれど、激しく動けば動くほど、自分が股間を擦りつけている物がなんであるのかを、余計に意識せずにはいられなかった。羞恥心に理性を灼かれながらも、快感の絶対量が不足しているのだ。
 それでもどうにか、あたしの身体は、もう間もなく絶頂を迎えようとしていた。
「くぁ…、くはぅんっ…、ふぁ、ああっ、ああ、あっ……ふぁうっ……!!」
 身体の中心から広がる快感に背中を反らせながら、全身をがくがく震わせて、絶頂の感触を身体の隅々まで行き渡らせる。それが済んでしまうと、今まで膝立ちしていられたのが不思議なくらい四肢が脱力し、あたしはそのまま、北原くんの脚の上に、うつぶせに身体を沈めた。

 気をやりはしたものの、濃密な羞恥に煽られた官能の大部分は、身体の中に残されたままだった。そこでポタージュスープか何かを煮てでもいるみたいに、お腹の奥が熱く疼く。
 普通に自慰をしたときとは、比べ物にならないくらい乱れてしまったけれど、北原くんに導かれて迎える絶頂から思えば、快感の質が明らかに希薄だった。
 身体を楽な姿勢に伸ばすことも忘れて、四つんばいに伏せたままじっとしていると、北原くんが不意にあたしの頭の側に現れた。いつのまに身体の下から抜け出したのか気づかなかったけれど、彼の方も既に服を脱いでいるところを見ると、自分で思うより長く放心していたようだ。
「早沢、口…いいか?」
 少し焦っているような口調。見れば、彼のモノは、あたしの知る限りの最大限に屹立し、先端から僅かに分泌される体液は、既に少し白濁して見えた。射精してしまいたいものを、とにかくあたしが終わりを迎えるまで、我慢していたのだろう。
「ん…」
 あたしは素直に頷き、シーツに手をついて上体を持ち上げた。自分の股間の空隙を、早く埋めて欲しかったけれど、状態を見る限り、彼はあまり長持ちはしそうにない。本人もそれを留意し、とりあえず一度鎮めてしまおうと考えたのだろう。
 おとがいに添えられた彼の手に促されて、やや顔を上げる。
 彼は、あたしの側頭部に両手をかけ、引いていた腰を前に突き出した。その性急な動きに逆らわず、普段なら踏むべき前段階をあらかた端折って、あたしは口腔に彼を受け入れた。
「く……」
 侵入してきたそれが、舌の上を擦った途端、北原くんが下半身を緊張させるのが、気配でわかった。いきなり果ててしまいそうになったものを、格好悪いとでも思い、慌てて堪えたのだろう。
 その気持ちを汲んで、あたしは数秒の間、余計な刺激を加えないようにじっとした。そして、彼が落ちつくのを待ってから、ゆっくりと舌を絡め、抽送を開始する。
「んん、んむ…んふ…」
「ふ…うぅ、くっ…!」
 出来れば、こういうことは時間をかけ、手順を踏んで丹念にしたかったし、してあげたかった。でも、今回はそうも行かない。ほんの数回の抽送の後、彼は呆気なく、あたしの口の中に粘液を放出した。
 いつもに比べれば早過ぎる射精だったけど、予想していたので、下手はせずに済んだ。余裕を持って彼の精液を飲み下した後、舌の上に唾液をたっぷりと乗せ、大きさと固さを失ったそれにぬめぬめと絡める。
 暫くそれを繰り返し、彼のモノが勢いを取り戻すのを確かめてから、ようやくあたしは、それを口の中から解放した。
「はふ…」
「はー…」
 あたしと北原くんは、同時に大きく息を吐いた。彼の方は、人心地ついたと言う意味なのだろうけど、あたしは純粋に呼吸が苦しかっただけだ。人心地どころではなかった。
 北原くんは、身体を起こそうとするあたしを、背中に手を置いてそのままの姿勢に留め、再び背後に移動した。
「早沢…、無茶苦茶可愛かった…」
 犬の「伏せ」のような姿勢を取るあたしに、北原くんは、自分も四つんばいになって、身体全体で覆い被さって来た。それから、右手だけでバランスを取り、左手をあたしの脇から身体の下に入れ、優しく胸に触れる。
「んっ…」
 前戯の必要な段階はとっくに過ぎていて、頭では今更だと思うのに、ゆっくりと胸をこねられると、まるで魂を直に愛撫されているみたいに気持ちが好かった。
 北原くんは、あたしを押しつぶすように少し姿勢を下げると、耳元で囁いた。
「普段も、自分で、その…したり、するのか?」
 予想外の質問に、触れられている左の胸が、急激に体温を増したような気がした。
「……そんなこと、言えないよ…。それより、あたし……」
「早沢、知りたいんだ。」
 質問を誤魔化し、ついでにせがんでしまおうとするあたしの言葉を、北原くんはにべもなく遮った。内容に似合わぬ真面目な口調に、これも「自分が彼の物であることの証明」なのだと思い直し、答えなければ、この中途半端な状態から、先へ進ませては貰えないのだからと自分に言い訳をする。
「前は…、ときどき。
 北原くんと、つきあいはじめてからは、して、なかった、けど…」
 思わず、語尾を逆説で継いでしまい、あたしは、彼に対する自分の正直さに呆れた。
「く、ふぁっ…」
 唐突に乳首を摘まれ、声を漏らす。答に満足して、このまま続きをしてくれるのかと期待していると、北原くんは、きゅっ、きゅっ、と断続的に同じ動作ばかりを繰り返した。
「ふ、ふぁ…くふ…、はぅ…」
 それが、「けど」の続きを催促しているのだと言うことはわかったし、答える意思もあった。けれど、自分の下で、もぞもぞと切なげに腰を振るあたしの様子に、流石に可哀想になったのだろう、北原くんは「後で聞かせろよ」と言い、あたしが承諾するのを確認して、上体を起こした。
 北原くんの両手がわき腹に添えられたのを合図に、お尻を上げる。
 彼のモノの先端が入り口を突つく感触。普段は、ここから焦らされることも多いのだけれど、今日はもう苛めすぎたと思っているのか、彼は殆ど間を置かず、思い切り良くあたしの中に侵入してきた。
「くはぁんっ…ふぁ、あぁ…あ、」
 北原くんは、何度か前後に抽送をした後、試すようにゆっくりと、円を描く軌道で腰を動かした。
「はぁ、んっ…や、は…き、きたはら…く、くふ…」
 中を掻き回されるのと、入り口の周辺を満遍なく刺激されることが、無茶苦茶に気持ち好くて、彼の方に、無意識にお尻を突き出してしまう。劇的な反応に気を良くしてか、北原くんはなおも、複雑な動きであたしのその部分を蹂躙した。
「ふぁあっ…、ふぁう、ぁあ、くは…あ…、きもち、い…」
 以前に、似たような格好で身体を弄られたことはあったけれど、この体位でセックスをするのは初めてだった。屈辱的な体勢には、少し抵抗を感じたけど、精神的な要素抜きの、純粋に生理的な快感は、今まででいちばん大きいように思えた。
 この形だと、両足が足場を噛んでいるので、彼の方は多分とても動きやすいのだ。だから、自在にあたしを翻弄できるのだろう。
 散々煽られた後だからと言うのもあるけれど、あたしは早くも達してしまいそうになっていた。出来るだけ我慢して、なるべく長く味わうことも考えたけれど、北原くんの方が手加減なしなので、それも無理そうだ。
「ふぅあ、ひぁ…くは、あっ、はぁん…」
 潔く上りつめてしまおうと、自分でかけた意識の束縛を解く。喘ぎ声の間断が小さくなったことから気配を察したのか、北原くんは姿勢を前傾させ、先程のようにあたしに覆い被さって来る。そうでもしなければ、この体位では、お互いの身体があまり触れ合わない。彼は、身体を密着させた状態の方があたしが安心することを知っていて、そうしてくれているのだ。
 彼は、左腕であたしのウエストを抱えこみ、右手を伸ばして、いつもより幾分強めの力で胸を愛撫し、乳首を弄った。状況やあたしの状態から適したやり方を選んだわけではなく、単に、下半身と右手を別々のリズムで操ることが出来ずにそうなっただけなのだろうけれど、背中に圧し掛かられていることもあって、まるで、巨大な掌で、全身を同時に愛撫されているような錯覚に陥る。彼に触れられている部分全てが、争うようにあたしの神経に快感を流しこんで来るのが、目に見えるような気がした。
 シーツ抱くように上半身を伏せ、お尻を斜め上に突き出しながら、あたしは絶頂まで駆け上がる為の最後の数歩を、夢中で味わった。
「んあっ、は…ふぁ、ひ、ぁあっ…や、や…、い、……んっ、あ、ふぁぁあっ……!!」

 あたしはもう十分だったけれど、北原くんの方はまだ終わっていなかったので、彼はその後もう一度、あたしを求めた。
 獣の交尾のような体位で、自分本位な征服欲を満たしたことを、後になって悪いとでも思ったのか、二度目は、別人のように丁寧に、優しくしてくれた。何より嬉しかったのは、いったん正常位で身体を交えた後、その状態を維持したままあたしを抱え上げて、膝の上に跨る体位(後で聞いたところによれば、「対面座位」とか言うらしい)に移行させてくれたことだ。ひとつになったまま、抱き合ったり、キスをしたり、少し窮屈だけど胸を触って貰えたりもするこの形が、あたしはいちばん気に入っている。この状態のまま、背中やお尻を撫でられるのも、好きだった。でも、最初からこの形で入ろうと思うと、彼のモノを、自分で自分の中に導かねばならないのが、少し不満なのだ。
 時間をかけ、あまり激しく動いたりはせず、あたしたちはじっくりと、自分の身体をお互いの感触で染め上げた。もっとも、彼は約束を忘れていなかったようで、あたしが先程の言葉の続きを告白するまで、ひたすら焦らされてしまったのだけれど。
 それで、夏休みの前半の会わずにいた間、あたしが彼を想って、幾度となく自分を慰めていたことも、あの時あたしが裸で寝ていた理由も、結局は全て彼の知るところとなってしまった。

 翠に関して。
 帰途につく前に思いついてはいたものの、不安と、それに基づく嫉妬を思い出させ、助長してしまうことを考え、北原くんには言わなかったことがある。
 あたしが、ああも簡単に翠に心を許してしまったのには、北原くんとのことで人恋しさを自覚させられていたことの他に、もうひとつ思い当たる理由があった。
 微塵の蔭も感じさせない、無条件に人を安心させる、穏やかで優しい微笑み。小さい頃、あたしが戯れに想像していたところの「お母さん」のイメージに、翠はとてもよく似ているのだ。
 いもしないものを想うことは、当時を境にやめてしまったので、その如何にも幼いイメージは、今もそのままだ。翠に大人びた印象を憶えたのも、もしかするとそのせいかも知れない。
 けれど。
 彼女が何度か見せた、意味の汲み取れない幾つかの表情が、少し不思議だった。
 普段は、いつも春の日溜りにいるような、暖かい感じの人なのに、目の前に本人がいない今、頭の中に思い浮かべるそれらの表情の翠は、夜の雪原にひとり、立っているようだと、なんとなく思う。
 でもそれは、本当にふと不思議に思っただけの、純粋な疑問だった。
 だからあたしは、週が変わる頃には、綺麗にそのことを忘れてしまったのだった。

続く
第六章・了
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