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●第七章:昨日の続き、今日の終わり
「さよなら。」
 帰り際、出口への進路上で雑談に興じていた数人の同級生達に、一応あたしはそう挨拶をした。
 他人とは必要最低限しか口を聞かないあたしだけれど、以前から、タイミングさえ合えば「おはよう」と「さようなら」くらいは言うように心掛けている。
 礼儀を重んじて、と言うわけではない。出来るだけ目立たないまま、学級と言う集団に自分の存在を馴染ませるためにはどうすればいいのか、あたしなりに考えた末の行動だ。まったく口を聞かないと言うのはいかにも感じが悪いけれど、挨拶だけでも欠かさずにおけば、ただ「無口で付き合い辛い人」で通るだろうと言う目論見だったのだ。
 そしてそのあたしの思惑は、概ね意図した通りの成果を上げていたのだろうと思う。少なくとも一学期の間は、挨拶をすればそれなりに返事が返されていたし、それでいて積極的に近づいてくる人間もいなかった。まさしくあたしの望んでいた状況だ。
 ところが今は、挨拶をしても完全に黙殺されてしまう。
 言うまでもなく原因は、北原くんとの噂が、あたしに不利な形で流布してしまったことだ。噂そのものは既に沈静化しているものの、クラスの女子の間ではあたしは、「他人の彼氏を寝盗った女」としてすっかり定着していた。
 そうして三週間も過ごしていれば、みんな慣れたもので、今のあたしの挨拶にも、誰一人振り返ろうともしない。少し前までは、返事をしかけてから慌てて視線を逸らすとか、あからさまに困った表情になり、会釈だけをしてからそそくさと逃げ出すなどと言った反応も見られたのだけれど。
 元々人と喋ることがあまりないのだから、無視されたところで実害はないけれど、だからと言っていい気分のわけもない。胸の内でやれやれと思いながらその場を通り過ぎようとすると、後ろからついて来ていた翠が、同じ集団に向かって愛想良く「さようなら」と言う声が聞こえた。
「…あ、うん」
「また……」
 こちらには、ぎこちない返事がいくらか返される。翠は、今までも誰とでも分け隔てなく付き合って来ていたし、その(基本的には)温和な人格と、明晰な知性とで、周囲から一目置かれてもいる。あたしと親しくしていると言うだけで、他に何をしたわけでもない現状では、彼女達もどう扱って良いものか決めあぐねているのだろう。
 とは言え、疎まれ始めていることに変わりはない。そうと知っていながら、愛想良くしれっと挨拶をしてしまうあたり、たおやかな外見に反して、なんと図太いことか。
 授業が終わって既に数十分が過ぎているのに、教室の中には、彼女達の他にもまだ何人かが残っていた。土曜日と言うこともあって、時間に余裕のある生徒が多いのだろう。見れば、北原くんも、同級生二人となにやら談笑している。
 北原くんも、今日の午後は予定が空いているはずだった。本当ならあたしの家に来る約束になっていたのだけれど、うちの父が、珍しくもこの土日を休む予定であることが昨日の時点で判り、急遽中止したのだ。
 二度に渡る過去の例を思えば、父は多分、北原くんの来訪を歓迎するだろう。けれど、彼の方はきっとたまったものではないし、まして、そんな状況で情事に耽るわけにもいかない。自室で二人きりになることさえ、躊躇われてしまう。
 そんなわけで今日は、代わりにと言うわけではないけれど、あたしの予定がフリーになったことを知った翠が、帰りに家まで遊びに来ることになっていた。
 それで、授業が終わったらすぐに一緒に家に向かうと言う、考え得る限り最もシンプルな段取りを取り決めていたのだけれど、彼女がたまたま日直にあたっていて、少し遅くなってしまったのだ。
 出入り口直前で、何故か今頃教室に戻って来た高塚さんとすれ違ったので、彼女にも「さようなら」と声をかける。高塚さんは、そこで初めてあたしに気づいたように、肩越しに振りかえると、口の端にほんの微かな笑みを浮かべた。
「ん?ああ、おつかれ。」
 冷笑に見えなくもなかったけれど、気さくそうな笑みかとも思える。こめられた感情が読み取れるほど、はっきりとした表情ではなかった。
 初対面の不躾な印象に反して、どう言うわけか今では高塚さんだけが、あたしに返事を返してくれている。
 その態度はかなり素っ気無いものではあったけれど、それは別にあたしに対するときに限ったことではなく、誰に対しても同じように振る舞っているようだった。それでいて人気はあるようで、休み時間には、大抵周りに数人の女生徒がいる。立ち居振舞いそのものは無愛想でも、話しかけられれば受け答えはきちんとしているみたいだったから、人付き合いは悪くないのだろう。
 一見快活そうに見える容貌と、それに相反する素っ気無さは、なんと言うか涼やかで、少女向けのラブストーリーに登場する少年のような印象を彼女に与えていた。そう言うところが同性の人気を集めるのだろうと言うのは、翠の見解だ。服装はセーラー服だし、それがちゃんと似合っていることからもわかるように、決して見た目が男の子っぽいと言うわけでもないのだけれど。

 少し時間が遅くなってしまったけれど、うちで一緒に昼食をとる約束になっていたので、近所のスーパーに翠をつきあわせて、買い物をしてから帰宅した。
「ただいま」
 一応、奥にそう声をかける。
 あたしは日頃、誰も居ない家の中に向かって「ただいま」や「行ってきます」を言うような感傷的な真似はしない。今日に限っては、父がいるはずだからそうしたのだ。もっとも、寝ている可能性が高いのであまり大きな声は出さなかったし、返事も期待していなかった。
 それから、滅多に使用されることのない来客用のスリッパを出して、翠を招き入れる。
 翠は、行儀良く「お邪魔します」と言って、スリッパに足を入れた。
 あたしは翠の家に行ったことはないし、翠にしても、うちにくるのは今日が初めてだ。けれど、この三週間と言うもの、学校での自由時間のほとんどを二人で過ごしていたこともあって、既にあたしたちは、かなり親しいと言っていい状態になっていた。
 もっとも、三週間かけて徐々に、毎日等速度で親しさを増して来たわけではない。
 決定的だったのは、彼女と初めてまともに会話をした日の翌日、つまり、二学期三日目の、前日と同じ昼休みの出来事だった。
 その時、あたしは翠に、北原くんとの間にある事情を簡単に説明したのだ。
 もちろん、普通ならあまり人に話したりすべきことでないのはわかっていた。けれど、彼女はそれまで、恐らくはあたしと北原くんとが純粋に恋人同士であると思っていたはずで、その認識の下にあたしに肩入れをしようと言うのであれば、正しておかねばならないと思ったのだ。そうでなければ、彼女を欺いて利用することになってしまう。
 とは言うものの、やはり何もかもを打ち明けてしまうわけにも行かない。あたしが話したのは、自分は人恋しいだけで、北原くんに対して抱いているのは恋愛感情ではないかも知れないと言うことと、少なくともつきあい始めた時点では、彼の方もあたしに恋愛感情を抱いてはいなかったはずであること。それから、お互いにそれは承知の上であると言うことだけだった。
 ところが、そこまで聞いた後、何をどう手がかりにしたものか、翠は心なしか頬を桜色に染めて、言ったのだ。
「間違ってたら、ごめんね。
 理音ちゃん、もしかして……北原くんと、もう、その、エッチ、しちゃった?」
 後から思えば、それ自体が訊き辛い内容であったことを差し引いても、翠にしては珍しい、おずおずとした自信なさげな態度だった。その時点では、それはまだ具体的な根拠に基づいた推測ではなく、単にあたしの説明の不自然さから、直感的に思い至っただけだったのだろう。考えてみれば、年頃の女の子らしい発想ではある。
 けれど、前日の会話で翠の洞察力を印象付けられていた所為もあって、あたしはそのときまともに意表を突かれて狼狽してしまい、彼女のそう言う様子にまで注目している余裕がなかった。逆に翠は、あたしの狼狽を目の当たりにして、自分でも半信半疑だった推測に確信を持ったのだろう。
 あからさまに反応してしまった後では誤魔化すことも出来ず、仕方なく、半ば自棄気味に「まあね」と頷くと、翠は、意識の中を整理するように軽く呼吸を整え、あたしから視線を外して真顔になった。それから、唇に人差し指を添えて、何かを考える仕草をする。
「だからさ、『寝盗った』って噂されてるの、出鱈目ってわけでもないんだ。翠に同情してもらえる資格、ないと……思う。」
 沈黙に耐えきれず、あたしは自分からそう言った。努めて平静な口調を保ったつもりだったけれど、意識の隙間から漏れる苦渋を、隠すことが出来ない。
 その言葉を聞くと、翠は、考える仕草を中断して一瞬だけきょとんと目を円くしてから、すぐに肩を竦めて小首を傾げ、たまらなく嬉しそうな、いとおしむような微笑を、その相貌に滲ませた。
「理音ちゃん、真面目ね。」
「………へ?」
 その表情に思わず見惚れてしまい、思考が緩慢になっているところに、思ってもみなかった評価の言葉をかけられて、あたしは間抜けな反応を返していた。
「………それでも、いいの?」
 大方の事情を知った上でも、あたしに対する態度を翻す気が翠にはないのだとようやく気付いて、恐る恐るそれだけを問い掛ける。
 翠は、あたしの問いに答える代わりに、そんなことは最初から眼中にないとでも言うように、表情をいっそう綻ばせた。
「話してくれて、すごく嬉しいわ。」
 ああそうか、と、唐突に理解する。
 翠は、茅薙さんとの状況を比較した上で、あたしの方を「可哀想だ」と思ったわけではなく、ただ純粋に好意を向けてくれているのだ。彼女が何故、あたしに好意を抱くのかは判らないけれど、その解釈で間違っていない確信が、なんとなくあった。
 同情されるよりもずっと嬉しくて、沸騰して吹きこぼれてしまいそうに、心が熱くなる。
 そして多分この瞬間、あたしと翠は決定的に友達になったのだ。
 ただ、あたしと北原くんとの関係について、彼女がどう思ったのかは結局聞けず仕舞いで、後になってからそれが気にはなったけれど。

 昼食の後、先に翠を自室に案内しておいてから、あたしはお茶を淹れるために台所に戻った。
 案の定、父は寝ているようだったけれど、昨夜から続けて眠りっぱなしと言うわけでもないみたいで、流しを見ると自力で食事をとった形跡があった。空腹で、中途半端な時間に起きてしまったのだろう。
 流石に、一日だけの休暇ではこう言うことはしないけれど、二日休めるときの一日目は、父は大抵遅くまで寝ている。本人曰く、考えなしに寝たいだけ寝ていると言うわけでもないのだそうで、実際に翌々日の朝までにはきちんと生活を元に戻すのだから、立派なものだと言えないこともない。
 昼食を食べたばかりだから、とりあえずお茶菓子はいらないだろうと判断して、紅茶を入れたポットとティーカップ、加えて砂糖壷とミルクピッチャーをお盆に乗せ、部屋に戻る。翠の好みがミルクティーであることは聞いてあったので、レモンは用意しない。
 両手が塞がっているであろうことを見越して、あらかじめ開けっ放しにしておいたドアの前まで来ると、本棚の前に立ち、上の方の段を見上げている翠の姿が目に入った。
 なんとなく立ち止まり、その横顔を眺める。
 読みたい本でも見つけたものか、視界の隅には映っているだろうあたしの姿に気づく様子もない。表情は、真剣と言うか切実そうで、奥歯の痛みに耐えてでもいるようだ。
 もっとも、あたしは既に、その表情を見慣れていた。面と向かっている間、滅多なことでは柔和な表情を絶やさない翠はしかし、ふと会話が途切れて視線を外した時には、よくこう言う顔をするのだ。
 気にならないと言えば嘘になるけれど、あまり立ち入ったことを訊くのもどうかと言う気がして、その表情の理由は訊かずにいた。もっとも大したことではなく、何か思索に耽っているときの表情かも知れないし、単なる無表情と言う可能性もある。笑顔の印象が強いから、そうでない時のことが殊更に気になるのだろう。
「なんか、読みたい本とかあったら、何冊でも貸すよ?」
 部屋の中に歩み入りながらそう言うと、翠は、あたしの姿を視線で追うようにして、体ごと振り返った。そして、すぐにいつも通りの優しげな微笑を浮かべる。
「ありがとう。後で、何冊か貸してもらうわね。」
 嬉しそうにそう言うと、翠は、小さなガラステーブルの上でお茶の用意をするあたしの向かい側に、自分も腰を下ろした。
「これ、砂糖とミルク。」
 そう言って勧めると、翠は、砂糖二つを入れてかき混ぜた後、紅茶が冷めるほどミルクをたっぷり注ぐ。大人びた彼女の、意外な子供っぽさをなんとなく嬉しく思いながら、あたしはストレートのまま、カップの中味を口に運んだ。
「理音ちゃんて……」
 甘党なのだろう、湯気のあまり立たなくなった紅茶を、それでも美味しそうに一口飲んでから、翠はおもむろに口を開いた。
「中学校、どこだったの?この辺りだと、二中かしら。」
「そうだけど……、唐突だね。なんで?」
「ううん、ただ……、確か、そこの通りを越えると学区が変わるでしょう?だから、もう少しで同じ中学校だったのに……って思ったの。」
「ああ、そうなのか。そりゃ惜しかったかもね。」
 学区がどこで変わるかなんて知らないし、興味もなかったけれど、同意して見せると翠が嬉しそうに表情を緩ませたので、あたしもなんとなく嬉しい気持ちになった。
 現実には、当時のあたしでは、たとえ家が隣でも翠と親しくはなれなかっただろう。そう思いもしたけれど。

 友達と呼べる人物が家に遊びに来ることなど、この家に住むようになって初めてのことだったので、正直なところ少し不安だった。顔をつき合わせたところで、何をして良いものか勝手がわからないのだ。
 けれど結果的には、その心配は杞憂に終わった。
 翠は、休み時間などに二人でいるときと同じように、ただ雑談に興じるだけでも満足そうだったし、話し上手な彼女との会話は、あたしとしても楽しかった。
 三時過ぎになると、父が起き出して来て空腹を訴えたので、クッキーか何か、あるもので済ませるつもりだったところを変更して、近所の小さな商店街のパン屋兼ケーキ屋にケーキを買いに行き、三人でお茶にした(当然、ケーキ代は父に出させた)。
 友人の父親との同席など、翠に窮屈な思いをさせてしまうかも知れない、と言う心配に反して、彼女は父が相手でも変わりなく会話を弾ませていた。父の方も、相手が女の子であることに緊張してか、年甲斐もなくハイになってはいたものの、娘が友達を連れてきたことが嬉しいらしく、北原くんと会ったときと同じように上機嫌であることは、その終始しまりのない表情から伺えた。
 そうこうするうちに夕方になり、そろそろ帰るという翠を、あたしはマンションの入り口ホールまで見送ることにした。
 秋分は過ぎていたけれど、あまり遅い時刻ではなかったので、外はそれほど暗くなってはいない。逢魔が刻と言うところか。
「んじゃ、気をつけて。」
「うん。また、月曜日にね。」
 そう言いながら手を振って別れ、エレベータを待っていると、何故か翠が、小走りに取って返して来た。
「忘れ物?」
「物じゃないの。大事なこと、忘れてたわ。」
 怪訝に思いながら、翠の話を聞くために、到着したエレベータをそのまま見送る。
 大して悪びれる様子でもなく「ごめんね」と詫びてから、翠は、彼女にしては珍しい、悪戯っぽい微笑を浮かべた。
「でも、どうしても理音ちゃんに教えてあげたくて。」
「……なに?」
 こう言う表情をしていてもこの人は、小悪魔的と言うよりは天使のようだ、などと陳腐なことを考えながら問い返すと、彼女はおもむろに、あたしの耳元に顔を寄せてきた。
「北原君のことよ。」
 囁くように言う。
 彼女の口から彼の名が出るとは、予想していなかった。二人ともあたしと親しいわけだけれど、互いは別に親しくないからだ。翠との主な接点である学校で、あたしは北原くんとはあまり接しないようにしているのだから、それも当然ではある。
 ところが翠は、この三週間、北原くんのことを密かに観察していたと言うのだ。
「それでわかったの。理音ちゃん、多分気づいてないと思うんだけど……」
 そう前置きをして、言葉を切る。話したくて仕方がないのに、話してしまうのがもったいない、とでも言いたげな様子に、あたしもついつい惹きこまれてしまい、こくんと唾を飲んだ。
 そして翠が口にしたのは、北原くんの名を話題に出すよりも、ずっと意外なことだった。
「北原君ね、理音ちゃんが学校に残ってるうちは、自分も絶対に帰らないのよ。」
 

 月曜の放課後、あたしは教室の自分の席で、文庫本を読んでいた。
 居残ってまで、その本を今、読んでしまいたかったわけではない。翠の言ったことの真偽を確かめるつもりだったのだ。
 放課後、人気の少ない教室に居残っていれば、噂の件であたしを快く思っていない人間が、どんなちょっかいをかけてくるかわからない。始業式の日の今村さんのように、正面切って攻撃してくるかも知れないし、嫌がらせの類をされたりするかも知れない。
 などと言う危惧を、あたし自身は抱いてはいなかったし、翠にしても、自分が傍にいればそんなことはまず起こらないだろうと言う意見だ。聞こえよがしに嫌味を言われたりすることくらいはあるかも知れないけれど、それが今村さんや茅薙さんによるものでない限り、大したダメージにはなり得ない。茅薙さんと直接口を利いたことはないし、今村さんは、始業式の日以来、沈黙を守ったままだ。
 けれど、果たして北原くんも同じように考えるだろうか。彼はそう言う可能性を危惧して、暇を潰すような振りをしながら自分も教室に残り、他の女子に対して睨みを効かせているつもりなのではないだろうか。と言うのが、翠の考えだった。
 呆れたもので、土曜日はそれを確認するために、わざと日直の仕事に手間取っているフリをしていたのだそうだ。
 あたしは、用もないのに学校に居残ったりはしないけれど、掃除当番や係の仕事などで、やむなく下校が遅れることはある。そう言うときは、大抵は翠がつきあってくれていた。けれど、もしあたしに敵意を顕わそうとする人物が本当にいたのなら、噂の一方の当事者であり、男の子であり、噂が真実なら確実にあたしの味方であるはずの北原くんの方が、翠よりずっと牽制になるだろう。
 それに、確かに北原くんならば、そのくらいのことはするかも知れない、と言う気もしたのだ。
 実際に今、既に四時半過ぎだと言うのに、北原くんはまだ教室に残っていた。他には、北原くんの話し相手の男の子が一人と、高塚さんを含む四人の女の子のグループがいるだけだ。翠は先程帰らせたので、今はいない。
 別れる前に翠がもたらした情報によれば、北原君の今日の話し相手も、土曜日に一緒に残っていた二人も、彼と特別に親しい相手ではないそうだ。
 友達の多い人だから、そのことがものすごく不自然と言うわけでもない。
 でも、それが連日に及び、しかもあたしが学校に残っている間に限られているとなれば、どうか。それに、居残ると言っても今までは長くて三十分程度だったけれど、一昨日は一時間近く残っていたし、今日に至っては終業時刻から既に一時間半が過ぎている。
 噂が広まったとき、彼は自分の手で、周囲との軋轢からあたしを守ろうと考えたに違いない。そして当然、あたしの傍にいることでそれを果たすつもりでいただろう。
 ところが、学校の中でのあからさまな接触をあたしが拒んだため、やむなくこう言う目立たない手段を取っている。
 北原くんにしては繊細な策だけれど、確かに辻褄は合っていた。
 彼のこの行動について翠が語った推測は、恐らくは正しいのだろう。あたしはそう結論を出した。後は確かめるだけだ。
 この場でそうするのは、かなりの勇気を要するけれど、彼が費やした労力と時間に、少しでも報いることが出来るのなら、大したことではないように思えた。
 文庫本をしまい、鞄を手にして静かに席を立ち、背後から北原くんに歩み寄る。
「北原くん。」
 高まっている動悸に呼応するかのように、声が波を打った。衆目のある状況で彼の名を口にするのは、考えてみれば初めてだ。
 残っていた女の子たちが、こちらに注目するのが気配でわかった。北原くんの向かいに腰掛けていた男の子も、怪訝そうにあたしを見る。
 気持ちが怯みそうになり、あたしは胸に大きく空気を吸いこんだ。
「…………早沢…」
 北原くんも、ひどく意外そうにこちらを振り返る。あたしの方から話し掛けるとは、思っていなかったのだろう。
「あ……ええと、その、今まで、ごめん。」
 何が、とは言わない。それでも意味は伝わったみたいで、途端に北原くんは、悪戯を見つかった子供みたいな、憮然とした表情になった。もう間違いない。
「なんだ?おまえら、喧嘩でもしてたの?」
 佐倉くんと言っただろうか、どことなくやさぐれた雰囲気のその男の子に、にやにやとからかうようにそう言われて、北原くんはますます不機嫌そうな表情になった。
「そんなんじゃねえよ。…………早沢、帰るのか?」
「ん……。それで、よかったら、一緒にって……思ってさ。」
 意識が溶けて流れてしまいそうな照れくささを、必死で我慢しながらそう言う。北原くんは、なおも暫く憮然としていたけれど、やがて諦めたように大きく息を吐き、肩の力を抜いた。
「………そうだな、帰るか。」
 言うが早いか、北原くんは自分の鞄を掴んで立ちあがり、事情が飲み込めずに顔をしかめている佐倉くんを、少しバツが悪そうに見下ろした。
「佐倉、つきあわせてすまん。悪かった。そう言うわけだからオレは帰る。」
 なるほど彼は、理由も言わずに佐倉くんをつきあわせていたのだろう。その言葉には、本気で申し訳なさそうな響きがこもっている。佐倉くんもそう感じたのか、不意に表情を緩め、力の抜けた口調で「ま、いいけどよ」とぼやいた。
「あー……、ごめんね。」
 なんだか申し訳なくなってしまい、あたしからも謝っておくことにする。
 佐倉くんは、一瞬きょとんとあたしを見ると、元から細い目を更に細めて、人懐っこそうな、おどけた笑みを浮かべた。
「ああ、いいって。なんかよくわかんないけど、悪いのは全部コイツ。早沢さんは全然オッケーだから。」
 意外な反応だった。女子の間では、現在もっとも評判の悪いあたしだ。男の子にも好い印象を持たれてはいないだろうと思っていたのだけれど、彼の振る舞いからは、ネガティブな感情は見て取れない。
「あーあー、てめえの言う通りだよ。じゃあな、佐倉。行こうぜ、早沢。」
 北原くんは、既に出口に向かう体勢になったまま、後ろの佐倉くんにひらひらと手を振った後、ついてこいと促すように、その手をあたしの頭の上にぽんと下ろした。

「いつ気づいた?」
 北原くんは、あたしの自転車を押して歩きながら、そう訊いて来た。
 彼の家は、もうすぐそこだ。連れ立って帰途につきはしたものの、今更こんな、付き合い始めたばかりの浮かれた中学生カップルのような行動をとるのが気恥ずかしくて、殆ど無言のままでいたのだ。
「ごめん、あたしは全然気づかなかったんだ。翠が気づいて、教えてくれて……。それで今日は、北原くんのこと試すみたいになっちゃって、ごめん。」
 正直に答える。さもありなんと思ったのか、彼は少し不機嫌そうな、それでも納得をした顔になった。
「怒ってないか?」
「………翠が?」
 このことで怒るべき人物が誰なのか、咄嗟に思い浮かばず、たった今話題に出たばかりの翠の名を挙げてみる。
「なんでそこで里宮が出てくるんだよ。そうじゃなくてさ、……こっそり見張ってたみたいなもんだろ?だからさ。」
「ああ、あたしか。だって、心配してくれてたんでしょ?」
 「みたいなもの」ではなく、まさしく見張られていたことになるわけで、本当なら気分の良い話ではないのかも知れないけれど、嫌な気はしなかった。
 卑怯なことや嘘を嫌う彼にとって、あれは相当に不本意な行為であったはずだ。その上、あたしが機嫌を損ねる可能性があると知っていて、それでもそうしていたのは、本気で心配してくれたからだろう。そのことが、むしろ嬉しい。
「まあな。他に思いつかなくてさ。けど……、裏目だったよなあ。さっきも随分目立っちまったし。」
「いいの。さっきはわざと、あたしから声かけたんだ。」
 つまり、もう人目を憚るのはやめようと言う意思表示だったのだけれど、今まで気付いていなかったらしい。北原くんは、ようやく嬉しそうな表情になって何かを言おうと口を開き、そこでちょうど自分の家に到着したことに気づいて、言葉を変えた。
「寄ってくだろ?」
 有無を言わさない口調でそう言い、そのままあたしの自転車を門の中に入れてしまう。
 普段に比べて遅い時刻だったから、あたしとしては、今日のところは真っ直ぐ帰ろうかと思っていたのだけれど、彼がそう言うのなら逆らう理由はない。素直に後に続き、家に入った。
「ただいま。」
 あたしと違って、無人の家の中にもきちんと挨拶をする彼だけど、今日は少し事情が違っていた。二階への階段を上がりかけたところで、「お帰り」と返事が返ってきたのだ。
「遅かったな。ついさっき、じじいと庸介からお前に電話が……お、それ彼女か?」
 灯りもついていない一階の奥から顔を出したのは、見た感じ、二十代半ば程と思しき女の人だった。女性にしては低めの、やや重厚なアルト。言葉使いは男性のようだったけれど、別に乱暴な口調と言うわけでもない。
 意図的に避けているからではあるけど、この家で北原くん以外の人間に会うのは初めてで、なんだか入る家を間違えたような違和感に襲われる。
「姉貴……なんでいるんだ。」
 階段の途中で、上半身だけ振り返った中途半端な体勢のまま、北原くんは虚を突かれた様子でそう言った。
「自分の家だ。居てならないと言うものでもないだろう?そんなことよりその娘、お前の彼女なのか?」
 再度問われて、北原くんはあたしに視線を寄越した。
 肯定していいかと言う問いだろう。この状況ではやむを得ないので、即座に頷く。それに、彼女として紹介されてしまうことには抵抗を禁じ得ないものの、「友達」とか「ただのクラスメイト」と紹介されるのは、それはそれで嫌だった。
「まあな。」
「ええと……お邪魔、してます。」
「ふうん、ちょっと良く見せろ。」
 そう言うと、北原くんのお姉さんは、あたしの傍に寄ってきた。
 階段の一段目に立っているあたしより、まだ少し目線の位置が高い。身長百七十センチかそこらはあることになる。
 見るからに量が多い上、むさ苦しい程伸ばした髪と、リムレス眼鏡の向こうの、切れ長でやぶにらみのやけに鋭い目つきとで、良く見れば整った相貌をほぼ台無しにしている。なんと言うか、あまり自分の見た目に頓着しない人なのだろう。
 やがて、品定めを終えたのか、お姉さんは睨み付けるような目つきのまま、改めてあたしの顔を覗き込んだ。
「名前は?」
「早沢……、理音です。えと、字は『ことわり』に、音で。」
 露骨に視線を外すわけにも行かず、不機嫌そうな声に気圧されながらどうにか答える。けれど不思議なもので、「弟の彼女」と言うだけで愛想良くされるよりは、緊張を強いられずに済んでいるようにも思えた。
 彼女は、ふんと鼻を鳴らした後、あたしの右手を握って乱暴に振り、にこりともせずに言った。
「武生の姉の千歳だ。よろしく理音。武生、でかした。」
 彼女、千歳さんは、矢継ぎ早に言うと思い切り良く手を放し、振り返りもせずに、出てきた部屋へと再び引っ込んだ。

 部屋着に着替えた後、北原くんは少し乱暴に、ベッドに腰を下ろした。あたしも、彼の横に腰掛ける。
 家の中に、他にも人がいると言う意識が邪魔をして、いつものように身体を寄せることが出来ないまま、あたしたちは暫く雑談をした。
 千歳さんは、二十六歳で社会人。普段は一人暮らしをしているけれど、休日はこの家に帰って来ていることが多い。今日いるのは、たまたま休みを取ったか何かしたのだろう。
 北原くんは、姉についてそう語った。
 ついでに聞いたところによると、千歳さんの言葉に出てきた「じじい」と言うのは、文字通りお爺さんのこと。庸介と言うのは大学生のお兄さんで、こちらはお爺さんの家に住んでいるのだそうだ。と言っても、別に田舎にいるわけではなく、ここから電車で一駅の場所なのだけれど、その方が通学に便利なのでそうしているらしい。
 お姉さんがいると言うのは、以前に聞いた記憶があったけれど、お兄さんまでいると言うのは初耳だった。
「だから、今まで会ったことなかったんだね。……なんか睨まれてた気がするけど。」
「あいつはいつもあんなもんだから気にすんな。お前のことは気に入ってたよ。」
「へ?そう?なの?」
 俄かには信じ難い話だったけれど、先程の千歳さんの言葉から類推すると、もしかしたらそうなのかも知れないとは、あたしも思っていた。
 千歳さんは、北原くんに向かって「でかした」と言っていた。微妙に「彼女」でない身としては複雑な気分だけれど、あれはつまり千歳さんの目で見て、弟の彼女として合格と言うことだったのだろう。
「ま、どのみちあんまり会うこともねえだろうけどな。」
 胸のうちで安堵していると、北原くんはそう言い、柄にもなく憂鬱そうなため息をついた。一度機嫌を直したように見えたのに、部屋に戻ってから、どうも元気がないのだ。
「北原くん、機嫌、悪い?」
 心配になって尋ねると、北原くんは少しだけ顔をしかめてから、苦笑した。
「ああ、そうじゃねえよ。まさか姉貴がいるとは思わなかったからさ、あー……ほら。」
 何が「ほら」なんだ、と思ったものの、その決まりの悪そうな口調から、彼の言わんとすることはなんとなく理解できた。あたしを抱くつもりだったのだ。
 あたしたちは、約束をして会う時、必ずセックスをすると言うわけではない。寄り添って話をしてお終いと言うこともあるし、北原くんが、あたしを寝かせておいてくれることも多い。
 けれど、土曜や休日に限れば、長時間一緒に居られることもあって、今まで例外無く、彼はあたしを抱いていた。
 一昨日も、あたしは当然のようにそのつもりだった。北原くんもそうだったのだろう。
 ところが、直前になって約束がフイになってしまい、態度にこそ出さなかったけれど、彼は落胆したに違いない。そして今日の放課後、思いがけずあたしと過ごせることになった。けれど、帰宅してみれば今度はお姉さんが居て、またしても行為に及ぶには躊躇われる状況となってしまったわけだ。
 北原くんは、それで少し不貞腐れているのだ。
 気持ちはわからないでもなかった。あたしとしても、いくらか残念ではある。
 ただ、あたしの方は、寄り添ったり、抱き締められたりすることも、セックスと同じように大切だったから、まだ我慢できない程でもないのだ。また明日、と思えばそれで済む。でも、男の子は、そう言うわけにも行かないのだろう。
 彼の態度の意味を理解して、あたしはなんとかしてあげたくなってしまい、つい思い付きを口にした。
「……そっか、じゃあさ、せめて……その、えっと、口で、して……あげようか?」
 それならば服を脱がずに済むし、身体を絡める必要もない。千歳さんは一階にいるのだから、もし階段を上がってくる気配がしたら、すぐに中断して身支度を整えればいい。自分でも信じられないくらい大胆な話だけれど、そう考えての提案だった。
 とは言え、平素の精神状態で、自分からこんなことを言うのは初めてだ。口に出してから猛烈に恥ずかしくなり、あたしは慌てて顔を俯かせた。
「………いや、いいよ。」
 北原くんは、かなりの間をおいてから、そう返事をした。
 無言でいた時間の長さと、無理矢理平静さを貼り付けたような口調から、かなり迷った末に、あたしの提案を退けたのだと言うことが伺える。
 こちらからの申し出なのだから、遠慮することはないのにと思うのだけれど、自分だけが満足することを、彼はよしとしないのだ。
 「自分の物にしたい」と言いながら、彼は決して、あたしを物のようには扱わない。「大事にする」と言う約束のこともあるのだろうけれど、彼が我が物としたいのは、飽くまで人としての性質までを含めての「あたし」なのだ。
 だから、互いの欲情を深める為になら、相当に大胆な要求をすることも躊躇わない人なのに、自分の性欲の処理だけをあたしにさせるような真似は、出来ない。そう言うことだ。
 けれどこの様子では、彼はきっと、後で「自分でする」つもりなのだろう。それがなんとなく悔しいのだ。折角あたしがいるのだから、あたしで気持ち良くなって欲しかった。
 あたしは、一旦ベッドから立ちあがり、北原くんの正面に回って跪いた。
「早沢……」
 肉欲に身を任せるまいとしているのだろう、北原くんは、しかめっ面で咎めるようにあたしを見る。それを正面から見つめ返すことが出来ず、あたしは視線を逸らし気味にしたまま、口を開いた。
「し……」
 したいの、と言おうとして、言えずに口篭もる。そう言えば、いちばん彼に気兼ねをさせずに済むと思うのに、恥ずかしさが勝った。
 仕方なく、次善を取ることにする。
「して……あげたいの。お願い。」
「………………………………………ごめん、頼む。」
 奥歯を噛み締めた表情のまま、先程よりもさらに長く悩んだ末、ようやく彼は、あたしの拙い誘惑に屈した。

 咄嗟に口に出した言葉ではあったけれど、してあげたい、と言うのは嘘ではない。
 それは別に、今この状況だからと言うのではなく、あたしは彼に、フェラチオを「してあげる」のが好きなのだと思う。それは多分、経験した中で唯一この行為だけが、あたしの方がほぼ一方的に、彼に与えてあげられるものだからだ。
 北原くんは、ベッドに浅く腰掛けて、苦渋の上に期待を滲み出させた表情で待っていた。
 舌で唇を濡らし、ジーンズの股間から屹立している目の前のそれを、見るともなしに眺める。いつも思うことだけれど、このシチュエーションでの男の子の姿は、冷静であれば笑ってしまう間抜けさだ。
 軽く深呼吸をした。今日ばかりは、自分の方はその気になってはならない。
 最初の時は、何がなんだかわからないくらいに緊張し、恥ずかしかったフェラチオにも、いつのまにか随分慣れたつもりでいたけれど、それは行為に没入することによって、半ば意図的に緊張と羞恥心を意識から追い出すのに慣れたと言うことなのだと思う。行為の間も冷静さを保ち続けると言うことは、つまりは緊張と羞恥心をも意識の中に残すことになる。あたしは却って緊張していた。
 まして今日は、セックスの準備段階としての行為ではないのだ。相手の性欲処理のためだけの、口唇奉仕。言ってみれば、自慰の手伝いをするようなものだ。努めて理性を意識の表層に集中させているが故に、それは羞恥に魂を撫で斬りにされるような気分だった。
 北原くんの脚に両手をかけて自分の上体を支え、股間に顔を寄せる。
 いつもはどうしていただろうか。北原くんは、あたしにフェラチオをさせるのが好きだったから、幾度となく同じ手順は踏んでいるし、以前よりは上手くなっているはずでもある。なのに、気負っているせいか、経験をスムーズになぞることが出来ない。まるで、初めて受けた時の定期試験のようだ。
 この状況で、着衣のままでいるのが初めてだからだろうか、やけに耳につく衣擦れが、思考にノイズをのせる。
 あたしはとりあえず舌を伸ばして、その先端付近をそっと舐め上げた。
 「変な味」だと思う。
 今までそんなことを考える余裕があったことはないから、恐らく自分は冷静さを保てているのだろう。そう思うことでいくらか落ち着けたのか、普段はまずキスから入るのだと思い出し、仕切りなおすことにした。
 彼の腿にかけていた右手を、目の前のそれの根元付近に添える。当然ながら、もう完全に硬くなっていた。ぶっとい鉄の棒に、ゴムか何かを巻いたみたいな感触だ。
 改めて顔を寄せ、その先端にくちづけて、「ちゅ」と軽く吸った。胸の中が、化学反応でも起こしたみたいにかあっと熱くなるのを、息を吸い込んで無理矢理にねじ伏せる。
 それからその周囲にも、唇で軽くはさむようなキスを、満遍なく繰り返す。
 一頻りそれを済ませてしまってから、今度は唾液をたっぷりと乗せて舌を伸ばし、棒状のそれの下側を、根元近くから先端に向かって舐め上げた。次いで、手を添えていない方の側面にも、同じように舌を這わせる。
「んふ……ん………」
 同じ動作を、時折甘噛みを交えつつ数回繰り返した後、ようやくあたしは、彼のモノを口腔に迎え入れた。けれど、まだ深い挿入を許すことはしない。くびれの部分に唇を被せるようにしたまま、その状態ではまだ比較的自由の利く舌先を、先端の割れた部分やその周囲に、押し付けるようにして刺激する。
「く……」
 軽い呻きを発しながら、北原くんはいつもそうしているように、あたしの頭に両手を添えて来た。
 こうして触れられていることに、あたしは安心感を覚える。それもいつも通りなのだけれど、今日は別のことも考えてしまっていた。
 これは恐らく、あたしを逃がすまいとしての、彼の無意識の動作なのだ。自分が終わるまでは、行為を中断することは許さないと言う意思表示とも取れる。それは、自分が彼の物になると言う約束の、具体的な顕れの一端であると思えた。
 もちろん、触れられている感触そのものも心地好いけれど、自分は、そうやって北原くんとの関係が保たれていることを確認し、そのことにも安心感を覚えているのではないかと思えるのだ。
「ん、んんっ……」
 と、彼の手にこめられた力が急に強まり、あたしは思考を中断した。
 こんなことを考える為に思考に余裕を確保しておいたわけではなかったはずだと言う思いが、意識の端を掠めた。けれど、彼のモノが口腔に深く侵入してくるのを、逆らわず受け入れるのに精一杯で、すぐに失念してしまう。
「ん……んふ……んむ………」
 舌と唾液を絡めるようにして吸いながら、同時に頭を前後に動かす。
 頭上から聴こえる荒い息遣いで、彼が既にかなり感じていることがわかった。経験的に言って、そろそろ終わりが近い気配だ。いつもより早い気がするけれど、多分彼自身も早めに終わってくれるつもりなのだろう。
 いよいよ終わりが近いことを感じ取り、あたしは、彼のモノに添えていた右手を再び腿の上に戻し、抽送のペースを速めた。
 背後から、唐突に「ごごんっ」と言う音が聴こえたのは、その最中だった。あたしの頭を殆ど掴む状態になっていた北原くんの手が、ぎくんと強張る感触。
「…………っ!!」
 一瞬、頭の中が真っ白になった。
 到底そうは聴こえない、力任せの音だったことも手伝って、ノックだと気づくまでにさらに数瞬を消費する。千歳さんだ。
 結局、いつのまにか行為に没入してしまっていたことを自覚する。いや、いつもよりは、確かに思考力に余裕があったのだ。なのに、階段を上がってくる気配を察知する為に使うつもりだったその余裕で、関係ないことを目一杯考えていた。
 遅まきながら、慌てて口の中のモノを吐き出す。
 ところが、顔を離そうとするあたしの動きを、まだ添えられたままの北原くんの手が押し留めた。力一杯身をよじれば逃げられたのだろうけれど、こんな時でさえ彼に本気で逆らうことが出来ず、反射的に体の力を抜いてしまう。
 そのあたしの鼻先で、彼のモノがびくんと脈打つのが見えた。
「……ゃ………っっっ!!!」
 思わず上げそうになった悲鳴を、必死に喉の奥に閉じ込める。
 きつく目を閉じ、出来る範囲で顔を背けたた瞬間、「べちゃ」と言う生暖かい感触が鼻の頭を叩いた。次いで、閉じた瞼や頬の上にも断続的に同じ事が起こり、収まる。
 北原くんの腕から力が抜けた。
「武生、いないのか?」
 再び「がんがん」とドアを叩く音がした後、千歳さんの声が聞こえた。
 そのままだといずれ千歳さんが踏み込んでくることは明白なので、北原くんは、懸命に平静を装った口調で、ドアの外に向かって「なんだよ?」と言った。
「腹減った。夕飯に宅配ピザとっていいか?」
「…あ、ああ………」
 それだけのやり取りが終わると、乱暴なノックの音とは対照的な、とんとんと言う静かな足音がして、千歳さんが階段を下りて行くのがわかった。
 気配が消えるのを待って、ようやく息をつくと、それをどう取ったものか、北原くんは決まり悪そうに謝った。
「早沢、ごめん。」
「ん、平気。びっくりしたね。」
 なんだか疲れてしまい、力の抜けた口調でそう言う。同時に、この顔の状態ではサマにならないだろうなと思いながら、にこりと微笑んで見せる。
 それでほっと出来たのだろう、彼もやっと表情を緩め、大きくため息を吐いた。
「あ、マズい、垂れそう。」
 頬の上の、虫か何かが這っているような感触に、あたしは反射的に手をやり、人差し指で拭った。とは言え、拭くものが手元にない状況に変わりはなく、その指先を、ただぼんやりと見つめることになる
「早沢、ほら。」
 目の前にティッシュが差し出される。けれど、あたしはそれを受け取らず、人差し指を自分の口に入れ、その先に付着した精液を、舌の上に転がした。北原くんが、少し目を円くする。
 口の中のそれは、いつにも増して変な味に感じられた。
 飲んだことは幾度もあったけれど、それは美味しいものではない。と言うか、不味い。嚥下するとき、喉に絡みつくような感触も頂けない。指先にすくい取った量だけでは少ないからか、今はなおのこと喉に引っかかるように思えた。
 ただ、これを飲むと、北原くんはとても感激してくれるのだ。あたしはそれが好きだった。だから、いかにも汚いものであるかのように、ティッシュで拭き取ってしまうのが、何か悪い気がしたのだ。それに、口の中に出させてあげられなかったことが、少し申し訳ないとも思っていた。
 もう一度頬を拭おうとするその手を、北原くんが左手で押し止める。見上げると彼は、何やら少し後ろめたそうな表情をしていた。
 その表情で、何かを考えていることがわかったので、素直に右手を引っ込め、出方を待つことにする。
 と、彼は、左手をおとがいに添えるようにして、あたしの顔をやや上向きに固定させた。そして、空いている右手の人差し指で、先程あたし自身がそうしたように、顔の上の精液をすくい取る。
 北原くんは、その手を一旦引っ込めかけてから、少し躊躇ったあと、あたしの鼻先に差し出した。
 ここまで来てしまえば、その意図は明白だった。今しがた、あたしが自発的にそれを口に入れたのを見て思いついたのだろう。
 あたしは少しだけ顔を上げてその指先を口に含み、フェラチオに近い要領で(と言っても、細い分ずっと容易ではあったけれど)舌を絡めた。
 差し出された指に、少し伸び上がるようにして口を近づけていると、自分が餌を貰う雛鳥にでもなったみたいだと思う。
 この行為の意味は、恐らくは精神的なものなのだろう。苦痛ではないとしても、これで性的な快楽を得られるわけはない。北原くんの方にしても、それは同じはずだ。
 誰もがそうであるのかは、あたしの知るところではないけれど、少なくとも彼は、本当なら毎回でも、あたしのお腹の中に射精をしたいのだと思う。あたしとしても、出来ることならそうさせてあげたいけれど、なかなかそうも行かないのが現実だ。
 純粋に性的な快感を得ることも、目的のひとつには違いない。けれど、相手の体内に自分の印を注ぎ込むのも、彼にとっては大切なことなのだ。あたしに精液を飲ませることは、だから恐らくは、その擬似的行為の意味もあるのではないだろうか。
 キスの時に唾液を交換したりするのも近いものがあるけど、これらはつまり、自分の一部を分け与えることによって、対象を自分の意識により深く取りこむための儀式なのだ。
 そう思うと、この行為が自分にとっても甘美なものに感じられて、次第にあたしの方も、彼の指先に舌を絡めることに没頭して行った。

 同じ事を数回繰り返し、付着したモノをほぼ舐め終えてしまうと、北原くんはあたしを労うように、ウェットティッシュで丹念に顔を拭いてくれた。それが済むと今度は、綺麗になった証拠だとでも言わんばかりに何度も頬にくちづけ、同時に反対側の頬を手のひらで撫でてくれる。
 根拠はないけれど、千歳さんも暫くは上がって来ないだろうと考え、あたしはされるがままになっていた。さっきまであまり身体を寄せていられなかった所為もあって、あたし自身としても、彼の愛撫に身を任せていたい気分だったのだ。
 膝立ちの姿勢が辛くなって来たので、北原くんの横に座らせて貰おうと思って立ちあがると、彼はあたしのウエストに腕を回し、強引に自分の膝の上に腰を下ろさせた。
「ちょ、ちょっと……」
 横抱きにされる心地よさにぼーっとなりかけながら、慌てて抗議の声を出す。けれど、やっぱり力いっぱい抵抗することは出来ず、結局あたしは、それ以上成す術もないまま、完全に抱きすくめられることになった。
「姉貴のことなら心配すんな。あいつ食い意地張っててさ、出前とか頼むと、届くまでずっとスクーターの音が聞こえる場所で待ち構えてるから。」
 ちょっとだけ笑いを含んだ声でそう言うなり、彼はあたしの耳元から首筋にかけて、唇を這わせた。
「ひゃ……ん…、あ……、でも……」
 だからと言って、他に家人がいる家の中で、あんまり羽目を外す気になれるものではない。けれど北原くんの方は、千歳さんがもう一度上がってくることはないと、余程深く確信しているのか、あたしの抵抗を意に介する様子もなく、唇での愛撫を続けた。
「やっぱさ、自分だけってのは、嫌なんだよ。」
 耳元で、打って変わって真面目な口調で囁かれ、不覚にもときめいてしまう。北原くんは、その意識の間隙を狙いすましたように腕での拘束を緩め、右手をスカートの中に入れてきた。
「ふぁ……や、はぁ……ん…」
 太腿をそっと撫でられ、甘い声が漏れるのを抑えることが出来ない。
 日頃、雑な印象ばかりが先行する彼はしかし、あたしへの愛撫の時だけは、ガラス細工の花にでも触れるみたいに繊細で優しい。そしてそれが、彼自身が意識してそうしてくれているのだとわかるだけに、こう言うとき、あたしの方も強硬に拒むことが出来ないのだ。結局のところ、観念するしかなかった。
 北原くんの方に顔を向け、最後の抵抗とばかりに、少しだけ恨みがましい視線を投じる。それで、あたしが諦めたことがわかったのだろう、左肩に回された手に力が込められ、上体が彼の方に引き寄せられた。
 顔と顔が接近するのに逆らわず、そのままキスをし、舌を絡める。今まで我慢していたのに、いちどその気になってしまえばあっけないもので、早くもお腹の奥が疼き始めるのがわかった。
「声、なるべく我慢しろよな。」
 北原くんは、唇を離すなりそう言うと、指の腹で、ショーツの上から軽く女の子の部分を撫で上げる。
「……ん、くっ…ふぁ……」
 我慢しろと言われたばかりなので、あまり声が乗らないように意識して呼気を漏らす。
 けれど、普段にしても、別に好きで声を漏らしているわけではない。北原くんに聴かれてしまうのが恥ずかしくて、いつも最初のうちは我慢しているのだ。それでも、結局はいつのまにか大きな声を出してしまうことが殆どなわけで、我慢しろと言われても、正直なところあまり自信がなかった。
 なのに、そう彼に訴えることをしなかったのは、雰囲気に流されていると言う自覚はあるにせよ、もう拒む気持ちは持てなくなっていたからだ。
 彼は、ショーツ越しの愛撫を一頻り繰り返してしまうと、膝の上に横抱きにしていたあたしを、完全に後ろ向きに座りなおさせた。
 向かい合う形で彼の膝の上に乗るのは、あたしとしてもお気に入りだったけれど、逆はそれほどでもない。彼の姿が見えないのが不安だし、足が床につかないのも落ち着かない気がした。もっとも、そう言う部分にあやういスリルを感じないではないのだけれど。
 彼にしてみれば、手を使った前戯の段階では、この方があたしの敏感な部分に触れ易いのだろう。それでなくとも比較的長身の彼は、相応に四肢も長いが故か、向かい合っている時はもとより、あたしを横抱きにした状態あっても、やや窮屈な感は否めない。
 北原くんは、左腕をあたしのウエストに絡めると、再び右手をスカートの中に入れて来た。そして、訪れるであろう刺激に身構えていたあたしを尻目に、今度は、無防備に開かされた脚の間にその手を移動させ、内腿を撫でさする。
「ん……ふぁ、ふぅ……」
 先程までの流れから、今度は女の子の部分に直接触れられるものと思っていたので、その予想と違う優しい感触は、お風呂に身を沈める時のような安堵感を、あたしに与えた。
 うっとりとした気持ちで、北原くんの胸に体重を預ける。
 何度か内腿を撫でた後、北原くんの手は、あたしの下腹まで上がってきた。また少し緊張が高まる。
 右手の動きの妨げになったのだろう、北原くんは左腕を上げ、あたしの頬に触れた。同時に、右の掌でお臍の下あたりを撫でながら、指先をショーツの内側に侵入させて来る。
「んくっ……ふぁ、くふ……」
 いちばん敏感な突起のあたりを、指の腹で上からそっと押さえるように触れられ、あたしは全身をぴくんと震わせた。
 その反応に満足したのか、北原くんは嬉しそうに「くすっ」と笑いを漏らすと、右手を更に深い位置まで進め、中指の第一関節付近を裂け目に沿うように軽く押しつけて、先程ショーツの上からしたように、ゆっくりと上下に這わせ始めた。
「んっ…ぁ、はぁっ…んく……くは、はう……」
 必死に声を飲み込み、代わりにいつもよりも荒く息を吐く。そうしていれば、どうにかあまり大きな声を出さずに済むのだ。とは言え、呼吸を荒げていると、自分がまるでいつもより激しく欲情しているみたいで、気まずいものがないではなかった。
 そうやって、声を抑えることに腐心している分、送り込まれる快感に対して意識が無防備になったものか、あたしのその部分は、いつもより簡単に滑りを増しつつあった。
 頃合と見たのか、北原くんはいったん行為を中断し、あたしを膝の上から降ろしてベッドに腰掛けさせる。自分は床に降りると、あたしの腰を左腕で抱え上げ、器用に右手だけでショーツを下ろして、そのまま脚から抜き取った。
「早沢、スカート持ち上げろ。」
 あたしの足下に屈み込むなり、そう言う。
「……へ?え?へ?ええっ!?」
 半分蕩けた思考で彼の言葉を何度か反芻し、あたしはようやくその意味を理解した。
 この段階に至るまでスカートを身に着けたままでいるのは、今日が初めてだ。けれど、この制服のスカートはそこそこ短いから、彼が必要なだけ持ち上げるなりすれば、それで済む。このままで物凄く邪魔になると言うわけでもないはずだった。それを、わざわざあたし自身の手で捲らせようと言うのだ。
 どうしてこの人は、あたしの羞恥心を刺激することに、こうまで巧妙なのだろう。
 既に何もかもを彼に許しながら、こんなことを考えるのはお笑い種かも知れないけれど、あたしは、清楚とは言わないまでも、それなりの慎みは保っていたいと思っている。
 そのように教育されて育ってきたからと言うのもある。けれどそれよりも、その方が彼の好みだから、無意識にそうありたいと願うのではではないか、と言う気がするのだ。
 それだけに、こう言う「自分で何かをしろ」と言う類の要求に、あたしは羞恥心をもっとも強く揺さぶられた。
 ところが困ったもので、彼はまた、そう言う「慎ましやかなあたし」があられもない姿を晒し、恥らう姿に興奮を覚える傾向がある。結果的にあたしは、彼の嗜好に従って自分を恥らい深く保ち、それ故にまた、却って恥ずかしい思いに耐えなければならないと言うジレンマを背負っているわけだ。
 羞恥心によって、あたし自身も欲情を深めてしまうのだから、結果から見ればこれでいいのかも知れないけれど、それで恥ずかしさが消えてなくなるわけでもない。
 ともあれ、余程無茶な要求をされたのでない限り、あたしは彼に従うしかなかった。
 スカートの裾を左手で摘み、視線を逸らしながら、おずおずとお腹の上まで持ち上げる。錯覚ではあるのだろうけれど、既にかなり恥ずかしい状態になっている女の子の部分に、物理力を伴っているのではないかと思える程の鋭さで、視線が刺さるのを感じた。
「脚、開け。」
 囁くように静かな、けれど期待に満ちた声音。
 要求を受け入れ始めてしまった以上、ここで逆らっても恥ずかしさが長引くだけだとわかってはいるけれど、躊躇せずにはいられない。彼の手で強引に膝を割らせてくれれば、何も考えずに済むのにと恨めしく思いながら、あたしはゆっくりを脚を拡げていった。
 意識が熱くて、脳だけをサウナにでも閉じ込められたようだ。耐え切れず、スカートの裾を下ろしてしまいたくなり、空いている右手を左手の上に添えて、瞳をきつく閉じた。
 彼は、あたしの姿を視覚で楽しんでいるのだろう、そのまま暫く待たされる。
 十数秒が過ぎた後、ようやく、足元で彼がごそごそと動く気配がしたので、あたしは恐る恐る瞼を開いた。四つんばいに近い姿勢であたしの脚の間に屈みこみ、こちらを見上げている北原くんと目が合う。
「早沢、可愛いよ。」
 ベッドの上での、いつもの彼の決まり文句だ。恥ずかしさに瞳が潤んでいたので、表情までは見て取れなかったけれど、口調は優しげだった。
 それから、彼は視線を下げると、あたしの股間に顔を寄せ、そのまま女の子の部分に口付けた。
「ん、ふぁっ……んん、んくっ……」
 大きく喘ぎかけた瞬間、千歳さんの存在が脳裏を掠め、慌てて声を抑え込む。
 北原くんは、そのまま脚を肩に担ぐようにしてあたしをベッドの上に押し倒し、唇と舌での愛撫を続けた。
「んふ…ひぁ……ん、んぁっ……」
 いつも通り、このまま一度気をやらされてしまうのだろうと考えながら、声にしてやり過ごせない分だけ濃密に思える快感を体内に溜め込んでいると、北原くんは不意に愛撫を中断し、立ち上がった。
「………?」
「少し、待ってろよ。」
 怪訝に思って上体を起こそうとすると、北原くんはあたしを制する。視線だけを向けると、彼は避妊具を装着しているところだった。
「ごめんな。あんまり時間かけると、マズいだろ?」
 それが済むと、北原くんはあたしに覆い被さってキスしてから、すまなそうに言った。
 北原くんは、挿入の前に一度、指や口であたしを絶頂に導いてくれることが多い。その時の、あたしの姿や表情を見るのが好きなのだ。だから、残念なのはむしろ彼の方であるはずだったけれど、とにかくその手順を省くことを詫びているのだろう。
「あ……、うん、そうだよね……」
 そう言われると、あたしとしても残念な気になったものの、千歳さんに見つかる危険を思えば、確かにあまりゆっくりと楽しんでもいられない。素直に同意すると、北原くんはもう一度唇にキスをして、髪を撫でてくれた後、ゆっくりとあたしの中に侵入してきた。
「ぁ……ん、くふ…あっ…ふぁっ……」
 いちばん深い位置まで挿入してしまってから、あたしの反応を伺うように、ゆっくりと何度か抽送をする。あたしにどのくらい余裕が残っているかを確かめたのだろう。
「早沢、手、もう放していいよ。」
 言われて初めて、律儀にも、自分が未だにスカートの裾をお腹の位置で押さえていたことに気付く。万が一にも放すまいと、余程固く握り締めていたものか、指の関節が軋むように痛んだ。
 手を脇にどけると、北原くんは、腰と背に両腕を回してあたしの身体を抱え込むようにきつく抱き締め、そのまま上体を後ろに起こしてベッドから降りる。
「きゃ……くふぁっ、あっ……」
 抱え上げられて急に足場を失ったあたしは、重力に逆らうことが出来ないまま腰を落とした。結果的に、勢い良く彼のモノを突き入れられることになり、たまらずに高い声を上げてしまう。
 慌てて口を噤んだものの、疼痛のような、それでいて粘るような高密度の快感を身体の中心に打ち込まれ、そのまま大声を上げて達してしまいたいのをどうにか踏み止まるのが精一杯で、階下の動静を窺うような余裕はなかった。北原くんの身体にしがみつくのと同時に、さらなる快感を要求するように膣全体がぎゅうっと収縮するのを、自分でどうすることも出来ない。
 北原くんは、「くっ…」と切なげな呻きを漏らしたものの、やはりひやりとしたのだろう、動くのをやめ、あたしを抱えたまま身体を固くした。
 ドアを閉めている上、階も隔てているのだから、少しくらい大きな声を出したところで、そうそう聞きとがめられるものではない。けれどこう言う時は、自分の発する気配が、想像以上に煩く感じるものだ。
「ふう」
 少し待ってみても、千歳さんが上がってくる気配はない。北原くんは、安堵のため息をついた。同時に、あたしを抱える腕から力が抜け、また少し腰が落ちる。
「んっ…くは……」
 さっき程の勢いではなかったものの、身体の内側を満たした快感にさざ波を立てられて、あたしは再び軽く声を漏らした。
 北原くんは、床の上に膝立ちをした状態であたしのその部分を貫いているため、あたしは膝も足もつくことが出来ず、体重のほぼ全てを彼に預ける形になっている。彼の動きは、それがちょっとしたものであっても、忠実にあたしに伝わるのだ。
「早沢、動くから。……あと少し我慢しててくれよ?」
 声を出すことをか、それとも、今しばらくは達してしまうことを堪えろと言うのか。それを確認する暇もなく、北原くんは、反動をつけて、あたしの全身をリズミカルに揺すり始めた。
「んっ…ぁっ…く、んくっ……くふぁ……」
 中途半端な足場で、彼の身体以外にすがるものがない分、普段よりも一体感を感じる。なればこそ、着衣越しにしか抱き合えないことがもどかしかった。
 着衣での抱擁の優しい感触は、それはそれで心地好くはあるけれど、こう言うときは、やはり素肌で触れ合いたいと思うのだ。そしてまた、胸や肩や背中に直に触れて貰えないことが、貫かれている部分への刺激をいっそう鮮烈に体内に焼きつける。
「んっ…んふっ…ぁふ…んくっ……」
 身体を揺すられ、お腹の中をえぐるように鋭く掻き回される度に、あたしは、声の塊を喉の奥に詰まらせたみたいな、不自然な喘ぎを繰り返した。
 思うさま声を上げられないことが意識を閉塞させるのか、注ぎ込まれた快感が、際限なく体内に蓄積されて行くかのような錯覚に陥る。身体が内側から爆ぜてしまいそうな程の快楽に翻弄されながら、それでもなお思考の隅にちらつく千歳さんの存在に、完全に我を失ってしまうことも出来ない。
 他にどうすることも出来ず、あたしはただひたすら、力一杯彼にしがみついていた。
 いきおい、全身に力を入れることになってしまうわけで、それは彼を迎え入れている部分も例外ではない。内部に侵入しているそれを、いつもよりも強い力で締め付けていたことが幸いしたと言っていいのかどうか、一度射精を済ませてしまっているにも拘わらず、北原くんは早くも律動を小刻みなものに変え、フィニッシュの準備に入っていた。
「ん、くふ、ぁ、くは…ふぁ、あっ……」
 残された思考能力の全てを、声を抑えることに費やして、彼の果てる瞬間を待ち受ける。自分の方は、もうほんの少し気を緩めれば、すぐにも達してしまえる状態だった。
 やがて彼は、腰の動きを極限まで速めた。それを何秒か繰り返した後、ひときわ大きく力強い動作であたしの中心を突き上げて動きを止め、同時に、あたしを抱き締める腕に、渾身と思える程の力を込める。
 既に飽和状態だったはずなのに、体内を満たす快楽の中心に、さらに濃密な層が生まれ、波紋を広げた。
「んっ…くぅ、んっっ……くふ、は、んんんっっっっっ……!!」
 体外に漏れ出ることなく、荒れ狂うように駆け巡る快感に、なにがなんだかわからなくなる。あたしは、壊れたからくり人形みたいに全身をがくがくと震わせながら、気が遠くなる程の高みに登りつめた。

 北原くんは予想していたのだそうだけれど、千歳さんは、彼とあたしの分まで宅配ピザを注文していた。言われてみれば、彼女は社会人なのだから、自分が食べたいだけなら、弟である彼にいちいち確認を取る必要はないわけだ。
 呼ばれて階下に降りたあたしたちに、千歳さんは、例の機嫌の悪そうな表情のままで、言った。
「理音、お近づきの印に奢ってやる。武生、お前にも御祝儀代わりだ。感謝して食え。」
 既に届いてしまったものだし、そう言われては遠慮するわけにも行かないので、あたしはそれをありがたく御馳走になることにした。宅配ピザを食べたのは初めてだったけれど、冷凍食品の方が美味しいように思ってしまったのは秘密だ。
 帰りは、北原くんが家まで送ってくれた。今日に限ったことではなく、時間が遅くなった時は、度々そうしてくれている。
 今後、日が短くなれば、ますますこう言う機会は増えることになる。それが申し訳なかったけれど、遠慮しても聞き入れるような人でないことはわかっていたので、あたしは素直に送られることにしていた。
「早沢、明日も、いいか?」
 マンションの玄関ホールでの別れ際、北原くんは、少し言いづらそうにそう言った。
「え、うん、いいけど。何?」
 とりあえず頷き、何か言いたげな気配だったので、先を促す。
「今日、慌しかったろ?」
 彼は、そこでいったん言葉を切り、急に視線を逸らした。見れば、いつのまにか顔を真っ赤に染めている。
「やっぱさ……ほら、ゆっくり…したくねーか?」
「え………あ、うん……、うん。うん、そうだね、うん。」
 照れくさそうな彼の様子を見ていなければ、正しく解釈することは出来なかったであろうその言葉に、胸の中が茹だったように熱くなってしまい、バカみたいに何度も頷く。
 「ゆっくりする」と言うのは、この場合「のんびりする」ことではない。彼は、もっと時間をかけて、丁寧に抱き合いたい、と言っているのだ。
 それは、寸分違わぬ、今のあたしの気持ちでもあった。
 今日の慌しくて激しい行為は、確かに快感こそ大きかったけれど、なんと言うかそれは、濃縮果汁を希釈せずに飲むようなものだったと思う。
 気持ちはよかったけれど、いつもみたいにゆっくりと余韻に浸れる状況でもなく、終わった後も疲労ばかりが残った。あたしとしてはやっぱり、もっと丁寧に体中を愛撫して欲しかったし、彼にも、あたしの全部を楽しんで欲しいと思うのだ。
 でも、ともかくも欲望を遂げることは出来たのだから、北原くんはあれで満足してくれたのだろうと思っていた。だから、彼の方も同じ気持ちだと言うのは、意外ではあったけれど、それ以上に物凄く嬉しかった。
 少なくとも肌を重ねている瞬間、二人は気持ちまでをも重ね合わせていられる。そのことは、自分と彼との距離を、今までよりもずっと近くに感じさせてくれた。

 翌日。
 約束通り、時間をかけての行為を楽しんだ後、あたしは前日よりも早めに帰途についた。名残惜しくはあったけれど、いくら父よりは早いとは言え、毎日のように帰宅が遅くなると言うのは、やはり気が引けるものだ。
 ところが、少し行ったところで、ポケットに財布がないことに気付いた。
 北原くんの部屋で脱ぎ散らかした時に、外に出てしまったのだ。そう考えて来た道を引き返すと、少し先のの路地から、女の子が姿を現すのが見えた。
 向こう、つまりは北原くんの家の方向に曲がってしまったので、横顔が一瞬見えただけだったけれど、その後姿にはポニーテールが揺れている。茅薙さんだった。
 偶然かとも思ったけれど、彼女が北原くんの家を知らないはずがない。
 どちらにしても、彼女の向かう先は、あたしの進行方向でもある。追い抜いてしまうのも気まずいし、さりとて、気になってしまって引き返すことも出来ない。あたしはその場に自転車を止めて、遠巻きに彼女の後を追った。
 茅薙さんは、案の定北原くんの家の前で立ち止まると、インターフォンを押した。
 彼女に気取られないように、電柱の陰に身を隠す。盗み聞きをしようとしていることは自覚していたけれど、ここまで見てしまってから、知らぬ振りなど出来ない相談だ。
「何か用か。」
 死角になっていて姿は見えなかったけれど、出てくる気配がするなり、北原くんの声が聞こえた。
 茅薙さんには悪いと思うものの、彼の困ったような口調に、心底安堵を感じる。
「武生くん、まだあの人とつきあってたんだね。」
 茅薙さんは、前置きなしに、上擦った口調でそう言った。
 いきなりの核心をつく言葉に、つい先程まで心地よさの余韻を纏っていたはずの肌が、ざわりと緊張する。
 「あの人」と言うのは、考えるまでもなくあたしのことだ。
 けれど何故、今になってそんなことを言い出すのだろうか。
 噂を信じていなかったか、或いは、昨日まで、学校では彼と接触しないようにしていたから、それで別れたものとでも思っていたのかも知れない。彼女が北原くんを諦めていないのなら、なおのこと希望的観測にはすがりたくなるだろう。
「悪いかよ。」
 北原くんは、あからさまに不機嫌な口調だったけれど、それに気圧される様子もなく、茅薙さんは言葉を継いだ。
「武生くん、あの人に騙されてるんだよ。」
「ああ?おい、お前な……」
 穏やかでないその言葉を咎めようと、北原くんは声を荒げた。けれど茅薙さんは、またもそれを無視して、声のトーンを高める。
「わたし知ってるんだから!あの人、大人しい振りしてるけど、中学校のとき、同級生の気の弱い男の子のことイジメてて」
 二の腕から肩にかけて、皮膚を切り裂くように戦慄が疾った。
 正確な事実とは言い難いにしても、何の手がかりもなしに構築した出鱈目とは思えないことを、彼女は口にしていた。
 狼狽。焦燥。恐怖。それらが混ざり合った、暗く濁った色の感情に意識をくまなく塗り潰され、瞬間的に身体も意識も硬直する。
「それでまわり中に嫌われててっ……、それでそのイジメられてた男の子は」
「黙れ!!」
 北原くんの怒鳴り声に、あたしは一瞬でまた現実に引き戻された。それが自分に向けられたことに怯んだのだろう、茅薙さんもようやく口を噤む。
「ゆ…………、『かやなぎ』」
 北原くんは、コンピューターで合成された台詞のように、ぎこちなくも明瞭な発音で目の前の少女の苗字を呼び、そのまま、息を呑む彼女に追い討ちをかけるように、怒気を孕んだままの口調で、冷徹に告げた。
「茅薙、オレと早沢がどうしてようが、お前には関係ねえよ。」
「あ………」
 あたしとの間で話題にした時でさえ、北原くんは彼女のことを「唯香」と名前で呼んでいた。恐らくは、彼女が彼のことを好きになった言う小学校の頃か、或いはそれ以前から、そう呼ぶのが日常だったのだ。だからつまり、後に続いた「関係ない」と言う言葉よりもむしろ、そちらの方が決定的な断絶の意思表示だったのだろう。
 絶望に、表情をくしゃくしゃと歪ませながら、茅薙さんはよろよろと後退り、その顔をふいとこちらに向けた。身を隠す暇はない。そもそも、いくらあたしが小柄だとは言っても、はっきりとこちらを見ている人間の目から隠れるには、電柱の陰は狭すぎた。
 茅薙さんは、驚愕に目を見開いた。あたしの方も多分、呆然とした顔をしていたのだろうと思う。
「あ………」
 そのまま数秒間見詰め合った後、彼女は再び表情を歪ませると、視線を引き千切るように、勢い良く顔を背けた。そのまま、来た道とは反対の方向に駆け出し、すぐ先の角に姿を消す。
 混乱したまま、成す術もなく彼女を見送っていると、いつのまに出てきたのか、北原くんがぬっと目の前に現れた。走り去る直前の茅薙さんの様子から、この場に第三者がいることに気付いたのだろう。
「早沢……」
 苦い表情。
「聞いてたのか………」
「あ…、さいふ、財布、忘れて……それで……」
 立ち聞きしてしまったことが後ろめたくなり、慌てふためきながら言い訳を口にしかけると、北原くんは自分の身体で包み込むように、あたしを抱き締めた。
「ごめん。嫌な思いさせたな。」
「え、あ、ううん。北原くんこそ………あたしの為に、ごめん、ごめんね。」
 逞しい腕の中で、次第に涙声になりながら、あたしも彼に謝る。
 きつい抱擁は、彼とても、今この瞬間にはすがるものが欲しいからだ。この優しい人が、相手を傷つけると知っていて、先程のような冷たい台詞を平気で言えるはずはない。
 けれど、今のあたしには、北原くんや茅薙さんの心情を慮ってばかりいる余裕はなかった。
 終業式の日の、泣いている姿しか印象にないせいかも知れないけれど、あたしは茅薙さんのことを、大人しそうな人だと思っていたのだ。その人が、激情に駆られてあんな行動に出たことに、怯まずにはいられない。北原くんに対する想いが、それだけ深いと言うことだし、そうさせてしまったのは他ならぬこのあたしなのだ。
 そして何より、彼女が口にしようとしていた内容に、あたしは激しく狼狽していた。
 心臓が、まだ早鐘を打っている。
 直接か伝聞かはわからないけれど、彼女が本当に中学の頃のあたしを知っているなら、「男の子」が歩であることは間違いない。
 当時、同級生達の間では、「坂崎歩をイジメていたのは主として早沢理音である」と言うことになっていた。事実がどうであれ、それは公園でのあたしと歩との諍いが噂になり、歩本人がいなくなって以後の、彼らの了解事項だった。
 では、怒声に遮られる直前、「『その男の子は』どうした」のだと、茅薙さんは言うつもりだったのか。
 心臓を鷲掴みにされるような恐怖に、抱かれた肩が小刻みに震えた。
 それをどう解釈したものか、北原くんは、あたしをより深く自分の胸に抱き寄せ、繰り返し髪を撫でてくれる。
 それでいくらかは安心できたものか、急激に嗚咽がこみ上げ、涙が溢れた。

 自分だって痛い気持ちでいるはずなのに、結局今日も北原くんは、あたしを家まで送ってくれた。もっとも、彼とて一人にはなりたくなかったのかも知れない。
 一度目の帰途についた時はまだ夕暮れだったのに、今はもうすっかり暗くなっていた。
 駐輪場に自転車を止めた後、彼は無言であたしを抱き締め、唇を求めた。
 本来なら、抵抗するべきなのだろう。こんな所では近所の人に見られてしまうかも知れないし、その噂が父の耳に入れば、彼との交際を止められる可能性もないではない。
 けれど今は、少しでも温もりが欲しかった。状況さえ許せば、もう一度抱かれたいとさえ思っていた。
 互いを貪るような長い長いキスを、言葉も交わさずに何度も繰り返す。
 けれど、永遠にそうしているわけにも行かない。もう何度目かわからないキスを終えると、それが終焉の合図だとでも言うように、彼はいっそう強い力であたしを抱き締めた。
 そして、殆ど耳に口付けるようにして、囁く。
「オレはお前のこと、本気で好きだからな。」
 言い聞かせるような口調。その言葉の意味を理解するのに、あたしは数秒を要した。
 我に帰れば、北原くんはとっくに踵を返し、振り向きもせずに去って行くところだった。混乱して、追いかけることも思いつかないまま、呆然と彼を見送る。
 足の裏が地面に貼り付いたように、その場を動くことが出来なかった。
 まったく予感がなかったわけではない。けれど、その告白はあまりにも突然だった。
 胸の内奥が熱いのは、恐らくはあたしに嬉しい気持ちがあるからだ。彼のような人に愛されていると知って、嬉しくないはずはない。
 なのに、何故だろう。
 先程にも増して、気持ちは暗澹と曇っていた。

続く
第七章・了
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